社会2年 日本の歴史

原始古代 縄文弥生 飛鳥 奈良 平安
鎌倉 室町 安土桃山 江戸 明治
大正 昭和 戦後    

 原始古代
 [要点-年代・時代区分]
 
年代の表し方には,西暦年年号がある。

西暦年はイエス・キリストが生まれたと考えられる年を紀元1(元)年と決めたもので,
それよりも前を紀元前(B.C.),後を紀元後(A.D.)で表す。

年号(元号)は昭和45年とか平成28年などである。
大化の改新(西暦645年)の後,中国にならってはじめて「大化」という年号を定めた。

世紀100年を1つの単位として区切ったものである。
1年~100年を1世紀,101年~200年を2世紀という。
1192年は1101~1200年の間にあるので12世紀である。
また,1600年は1501~1600年の間にあるので16世紀である。

 年代の表し方



年代の表し方には,西暦年と年号がある。
西暦年はイエス・キリストが生まれたと考えられる年を
紀元1(元)年と決めたもので,
それよりも前を紀元前(B.C.),後を紀元後(A.D.)で表す。

年号(元号)は昭和45年とか平成23年などである。
大化の改新(西暦645年)の後,
中国にならってはじめて「大化」という年号を定めた。

 世紀
 


世紀は100年を1つの単位として区切ったものである。
1年~100年を1世紀,101年~200年を2世紀という。

1192年は1101~1200年の間にあるので12世紀である。
また,1600年は1501~1600年の間にあるので16世紀である。

 時代区分
 


※明治以降は天皇が変わるたびに年号をかえるようになっている。
歴史を学習するとき,
この時代順と変わり目の年(西暦)をしっかり覚えておく必要がある。
奈良時代以降の,各時代の始まりの年は次のようになる。

奈良時代: 710年(南都(710)平城京)
平安時代: 794年(鳴くよ(794)ウグイス平安京)
鎌倉時代:1185年(人々和合)(1185)の鎌倉幕府)
室町時代:1338年(将軍尊氏勇み肌(1338))
安土・桃山時代:1573年(以後情(1573)けは無用と義昭追放)(室町幕府消滅)
江戸時代:1603年(人群れ満(1603)ちる徳川幕府)
明治時代:1868年(人は狼狽(1868)御誓文)
大正時代:1912年(行く人に(1912)告げよ大正デモクラシー)
昭和時代:1926年(一国難(1926)し昭和の時代)

 [要点-原始]
 
最古の人類は700万~600万年前にアフリカに現れた猿人である。
200万年前に出現した原人打製石器を使い始めた。
やがて,人類は火や言葉を使うことができるようになった。

今から20万年ほど前には,現在の人類の直接の祖先にあたる新人(ホモ・サピエンス)があらわれ,世界中に広がった。
打製石器を使い,狩りでけものをとり,木の実や草の根の採集をしていた時代を旧石器時代という。

約1万年前から新石器時代が始まり,磨製石器が使われ,農耕や牧畜が始まった。

 人類の出現と進化
 


最も古い人類は猿人で,その骨がアフリカで発見されている。
彼らは,サルによく似た動物で,四本足で森林の木の上で生活していた。
環境が変わり,森が少なくなってきたため,
草原でも食べ物をさがすようになり,
うしろ足で大地に立ち,直立二足歩行を始めた。

立って歩くことで重い脳を支えられるようになり
脳の発達を助けたと考えられる。
また,自由に使えるようになった前足で
木ぎれや石などの道具を使うことを通じて知能が発達した。



今から約250万年前から氷河時代に入り,氷期と間氷期をくり返した。
約200万年前に出現した原人は,寒さをしのいだり,
狩りや採集によって手に入れた食べ物を加工したりするために
火を使うようになった。

また,狩りをするときなど,仲間どうしで意思を伝え合うなかで,
言葉を発達させた。
さらに,石を打ち欠いてするどい刃をもつ打製石器をつくり始め,
これを使って,動物をとらえて食べたり,
猛獣から身を守ったりするようになった。

約20万年前には,
現在の人類の直接の祖先にあたる新人(ホモ・サピエンス)が
アフリカにあらわれ,世界中に広がった。

 新石器時代
 


今から1万年ほど前に,氷河時代が終わり,マンモスなどの大型の動物が絶滅した。
気温が上がると,食用となる木の実が増えた。
人々は木の実や魚や貝をとり,
弓と矢を用いて動物をとらえたりするようになった。

このころ土器が発明され,食べ物を煮ることができるようになった。
また,表面をみがいた磨製石器もつくられるようになった。
土器や磨製石器を使うようになったこの時代を
新石器時代という。

この時代,野生の植物を栽培する農耕や,
野生の動物を飼いならす牧畜も始められた。

 [要点-古代文明]
 
 

(1)
地図Aエジプト文明ナイル川の流域。
地図Bメソポタミア文明チグリス川ユーフラテス川の流域。
地図Cインダス文明インダス川の流域で発達した。

(2)
地図D中国文明黄河流域で発達し,紀元前1600年頃に という国が作られ,甲骨文字が使われた。
殷は周にほろぼされ,やがて,多くの国が争う春秋・戦国時代になった。
孔子儒学(儒教)を説いた。
紀元前 221年に秦の始皇帝が中国を統一し,遊牧民族の侵入を防ぐために万里の長城を築いた。
秦が滅亡した後,が中国を統一した。
この時代,シルクロードを通って中国から絹織物が西方に,西方から馬やぶどうが取引された。

(3)
ギリシャでは,多くの都市国家が生まれた。
最大の都市のアテネでは,成人男子の市民による民主政治が行われた。
紀元前4世紀の末,マケドニアのアレクサンドロス大王は大帝国をつくったが,その結果,ギリシャ文化が各地に伝わり,その土地の文化ととけあってヘレニズム文化がうまれた。
紀元前後,地中海一帯をローマ帝国が支配した。

(4)
インドでは,シャカ仏教を始めた。
パレスチナに生まれたイエスキリスト教を始めた。
7世紀のアラビア半島では,ムハンマド(マホメット)がアラーを唯一神とするイスラム教を始めた。

 古代文明(エジプト)
 


エジプト文明はナイル川流域で発達した。
石づくりの巨大な王の墓であるピラミッドで有名である。

ナイル川のはんらんの時期を知るための太陽暦や
洪水でうまった土地を測り直すための測量術が発達した。

文字は象形文字が使われた。
象形文字は,墓の壁などに書かれるだけでなく,
ナイル川流域に生えている草を材料にして作られた
パピルスという紙のようなものに書かれた。

 古代文明(メソポタニア)
 


メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川流域で発達した。
くさび形文字が使われた。

紀元前18世紀ごろにつくられたハンムラビ(ハムラビ)法典で名高い。
太陰暦,七曜制,60進法が使われた。

 古代文明(インダス)
 


インダス文明はインダス川流域で
紀元前2500年ごろにおこった文明である。
モへンジョ・ダロの遺跡で有名である。

しかし,紀元前1500年ごろに中央アジアから
アーリア人が侵入して先住民を従え,
バラモン(僧)を頂点とする厳しい身分制度(カースト制度)をつくった。

紀元前6世紀ごろ,シャカがバラモンの教えを批判して仏教を開いた。

 古代文明(比較)
 



 ギリシャ・ローマ文明
 
四大文明のほかにギリシャ・ローマ文明がある。
紀元前8世紀ころに古代ギリシャ文明が急速に開花し,
ポリスとよばれる都市国家が成立するようになった。

その中でも最大の都市のアテネでは,
成人男子の市民による民主政治が行われた。
紀元前4世紀の末,
ギリシャ北方のマケドニアのアレクサンダー大王(アレクサンドロス大王)が,
ギリシャ・エジプトからインドの一部にわたる大帝国をつくった。
その結果,ギリシャの文化は各地に伝わり,
その土地の文化ととけあって,新しい文化が生まれた。
この文化をヘレニズム文化という。

ローマは,紀元前1世紀,地中海一帯に広がる大帝国になった。
ローマ帝国に支配されていたパレスチナで,
イエスが現れ,キリスト教をおこした。

 宗教のおこり
 


紀元前5世紀ごろにインドで生まれたシャカ(釈迦)は
「心の迷いを取り去ることで,この世の苦しみからのがれられる」
とする仏教を説いた。

紀元前後にパレスチナ地方に生まれたイエスは
「神を信じる者は誰でも救われる」と説いた。
この教えはキリスト教とよばれ,
のちに「聖書」(新約聖書)にまとめられた。

7世紀に,アラビア半島に生まれたムハンマドが始めたイスラム教は,
唯一の神アラーを信仰する宗教で,
その教えは「コーラン」に記されている。



仏教は,シャカ(釈迦)が生まれたインド北東部から
インド,東南アジア,東アジア(中国,朝鮮,日本)へ伝わった。

パレスチナ地方ではユダヤ教が信仰されていたが,
紀元前後にこの地方に生まれたイエスはユダヤ教の指導者を批判した。
イエスのキリスト教は,
当時,パレスチナ地方を支配していたローマ帝国に迫害されたが,
のちにローマ帝国の国教になった。

7世紀のはじめごろ(610年),
メッカの商人ムハンマドは,ただ1つの神アラーの前では,
すべての人々は平等であり,神の教えをきびしく守って生きることを説き,
イスラム教(聖地はメッカ)を始めた。
ムハンマドはイスラム教によってアラビア半島の遊牧民をまとめ,
半島全体を統一した。
ムハンマドの教えはコーランという教典にまとめられた。
アラビア人は,ムハンマドの死後,
イスラム教を広めながら西アジアや北アフリカに兵を進めイスラム帝国を築いた。

 古代文明(中国)
 
中国文明は黄河流域で発達した。
紀元前1600年ごろに殷という国がつくられ,
亀の甲や牛の骨に刻まれた甲骨文字が使われた。
また,青銅器もつくられた。



 中国文明:周~春秋戦国
 


中国文明が起こったのは黄河流域である。
殷の時代には,亀の甲や牛の骨に刻まれた甲骨文字が使われた。

殷を滅ぼした周は,やがて,支配力を弱め,
多くの国が争う春秋・戦国時代になった。

春秋・戦国時代に,青銅器よりかたくて丈夫な
鉄製の農具が使われるようになり,農業の生産力が大きく高まった。

この戦乱の中で,孔子は,親子・兄弟などの秩序をたいせつにし,
思いやりの心(仁)による政治を説いた。
この教えを儒教といい,「論語」という書物にまとめられている。

 中国文明:秦・漢
 


紀元前3世紀に中国を統一して秦という国を
成立させたのは始皇帝である。
始皇帝は北方の遊牧民の侵入を防ぐために万里の長城を築いた。

しかし,万里の長城の建設や度重なる外征に
多くの農民をかりたてたため,
始皇帝の死後各地で反乱が起きて秦は滅び,漢がこれにかわった。

漢の時代に西のほうではローマ帝国が栄えていたが,
この2つの文明はシルクロード(絹の道)でつながっていた。


 先頭に戻る

 縄文弥生
 [要点-縄文・弥生・古墳時代]
 
 年代  おもなできごと
 1万2千年前  縄文時代:狩猟・採集,たて穴住居,貝塚,縄文土器,土偶
 紀元前3世紀  弥生時代:稲作が伝わる,高床倉庫,弥生土器,金属器
 57年  倭の奴の国王,漢に使いを送り金印を授けられる
 1,2世紀  吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
 239年  邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送る
 3世紀後半  大和地方前方後円墳という日本独自の古墳,大仙古墳は日本最大
大和政権:大王(後の天皇)
朝鮮半島:伽耶地方の国と結んで高句麗や新羅と戦った→渡来人

(1)
縄文時代には,人々は集団でむらをつくり,植物を栽培し,狩猟を行い,たて穴住居で生活をしていた。
縄目の文様のついた縄文土器が使われ,魔よけや食物の豊かさをいのるために土偶が作られた。
貝殻を捨てたあとである貝塚から発見される物から当時の様子を知ることができる。

(2)
紀元前3世紀ごろ,朝鮮半島南部から稲作が伝えられた。
このころから紀元3世紀までの時代を弥生時代という。
うすくて飾りが少なく実用的な弥生土器が作られ,穀物の貯蔵のための高床倉庫が使われた。
また,青銅器や鉄器などの金属器が使われた。

(3)
紀元前後の日本はと呼ばれ,100あまりの国に分かれていた。
1世紀の中ごろ(57年)倭の奴の国王が後漢の皇帝に使いを送り,金印を授けられた。
弥生時代の1,2世紀の頃の遺跡としては,佐賀県にある吉野ヶ里遺跡がある。
239 年,倭の邪馬台国の女王卑弥呼が中国のに使いを送ったことが,中国の歴史書の魏志倭人伝にしるされている。

(4)
3世紀後半大和地方には強力な国がうまれ,カギ形をした前方後円墳などの古墳が作られるようになった。
古墳のまわりには,はにわがおかれ,5世紀頃には世界最大級の大仙古墳がつくられた。
この国を大和国家,その政府を大和政権といい,その王は大王と呼ばれた。

(5)
朝鮮では高句麗が北から勢力をのばし,南部では新羅百済が小国の統一を進めた。
大和国家は百済や,小国が分立していた伽耶(任那)地方の国と結んで高句麗や新羅と戦った。
朝鮮半島から日本へ移り住んだ人々は渡来人と呼ばれ,漢字・仏教・儒教各種技術を伝えた。

 日本の旧石器時代-大陸と陸続き


 

長野県の野尻湖では,
数万年前の地層からナウマン象のきばと
オオツノジカの角の化石が発見された。

氷河時代には,
陸地に降り積もった雪が凍ってしまうために海水が減り,
しばしば海面が今よりも100m以上も低く,
日本列島が大陸と陸続きになっていた時期があった。
そのため,北からはマンモス,
南からはナウマン象やオオツノジカなどの大型の動物がやってきた。

これらの動物を追って日本列島にやって来た人々は,
打製石器をつけたやりなどを使って,動物をとらえたり,
植物を採集したりして食料にしていた。
人々は10人前後の集団をつくり,
簡単な草ぶきの小屋や岩かげなどに住みながら
獲物を求めて移動し,火を使ってくらしていた。

 岩宿遺跡



かつては,日本には旧石器時代はないと考えられていたが,
1946年に群馬県の岩宿遺跡で打製石器が発見され,
日本にも旧石器時代があったことが明らかになった。

 縄文土器



日本列島の人々は,1万2000年ほど前から土器を作り始めた。
この土器は縄文土器と呼ばれ,世界的に見ても古い年代とされている。
縄文土器が使われていた時代を縄文時代という。

縄文土器の特徴は,厚手で,
低温で焼かれたため黒褐色をしており,
表面に縄目のような文様がほどこされていることである。

木の実など植物性の食料の保存や,
煮たきのために土器を使うことができるようになり,
食べられる物の種類が増えて,
食生活は豊かになった。
(たとえば,ドングリはしぶみがあるために
そのまま食べることはできないが,
土器で煮炊きしてしぶみをぬけば食べることができる。)

 縄文時代の生活



日本列島では,
氷期が終わって気候が暖かくなったことで森林が広がり,
食用となるどんぐり・くりなどの木の実や,
いのしし・しかなどのけものが増えた。

また,海面が上昇して入り江にめぐまれたために
魚や貝類が豊富にとれるようになった。

この時代,世界史的には新石器時代で,農耕や牧畜が始まり,
日本列島でも植物(そば,ひょうたん,いもなど)の栽培が始まったが,
食料が比較的豊富であったため,農耕や牧畜は発達せず,
主として狩りや採集によって食糧を得ていた。

海岸や水辺には,
貝がらなどの食べ物の残りかすなどを捨てた貝塚ができた。
旧石器時代のように,
獲物を求めて移動する必要がなくなり定住するようになった。

縄文時代の住居はたて穴住居である。
たて穴住居は,地面を掘り下げて床とし,
草ぶきの屋根をかけたもので,
床のまん中には石でかこんだ炉を作り,
すいじや暖房に使った。

 三内丸山遺跡



縄文時代の代表的な遺跡は
青森県で発見された三内丸山遺跡である。
これは約5,500年~4,000年前のころの遺跡で,
最盛期の人口が500人と,
当時としては最大級の規模であった。

 土偶
 


土偶は,粘土を焼いて作った土人形で,女性をかたどったものが多い。
魔よけや豊かな食物をいのるために使われたと考えられている。

また,死者の霊の災いを防ぐためと思われる屈葬や,
大人になったことを示す儀式としての抜歯が行われていた。

 稲作の伝来
 


紀元前4世紀,中国や朝鮮半島から,稲作が九州北部に伝えられ,
やがて東日本にまで広がった。
人々は水田の近くにむらをつくって住み,
たて穴住居の近くには,
収穫した米をたくわえるための高床倉庫もつくられた。

高床倉庫は,ねずみや湿気を防ぐために床を高くしている。
石包丁は稲の穂をつみとるのに使われた。

 金属器や弥生土器



稲作とともに,青銅器や鉄器などの金属器も伝えられた。
銅剣・銅矛・銅鐸などの青銅器は
おもに祭りのための宝物として用いられ,
鉄器は武器として使われたほか,
木製の農具や舟を作る道具として用いられた。

このころに作られた弥生土器はかざりが少なく
薄手で赤褐色をしている。

 弥生時代の集落



世界のいずれの地域でも農耕社会が成立するとともに,
戦いのための武器や防御的施設を備えた集落が出現し,
蓄積された穀物をめぐって戦いがはじまったことが知られている。

弥生時代を代表する遺跡は,
佐賀県で発見された吉野ヶ里遺跡で,
外敵の侵入を防ぐための二重の壕,
高い柵,物見やぐらの跡が見つかっている。

そのほか,弥生時代のむらの遺跡としては,
静岡県の登呂遺跡などがある。

 縄文時代と弥生時代の比較

弥生時代と縄文時代の違いをまとめると次の表のようになる。


 国々の誕生

 


稲作がさかんになると,社会のしくみも急速に変わり,
小さな国々ができ,人々を支配する豪族や王が出現した。

漢の歴史書の漢書地理志には,
紀元前後のころ,倭(日本)には100あまりの国があり,
なかには,中国へ使いを送る国もあったと記されている。

また,57年には,倭の奴国の王が,後漢に使いを送り,
後漢の皇帝から金印を授けられたことが
後漢書東夷伝に記されている (剛なる奴国王)。

この金印は江戸時代に
現在の福岡県福岡市の志賀島で発見されたが,
このことから,奴国は九州北部にあったと考えられる。
金印にほられた「漢委奴国王」は「かんのわのなのこくおう」と読む。
(金印では「倭」ではなく「委」の文字が使われている)

 邪馬台国



3世紀になると,中国では後漢が滅び,魏・蜀・呉の3国に分かれていた。
魏志倭人伝には,邪馬台国の女王卑弥呼が倭の30あまりの小国を従えており,
それらの国々では,すでに身分のちがいも生まれていたこと,
239年に卑弥呼が魏に使いを送り,
皇帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号と金印を授けられ,
銅鏡100枚などの多くのおくり物を受けたことが記されている。

卑弥呼が使いを送ったのは,
中国の皇帝に王として認めてもらうためであった。

 大和政権と古墳



3世紀後半になると,
奈良盆地を中心とする地域には,王を中心として,
近畿地方の有力な豪族が支える強力な大和政権が生まれ,
大きな墓(古墳)がつくられるようになった。

大和政権の支配の広がりにともなって,
前方後円墳などの古墳は,
全国各地の豪族によってもつくられるようになった。

大和政権の王は,5世紀には,
九州から東北地方南部にいたる各地の王を従えるようになり,
大王と呼ばれるようになった。

古墳のなかで最大のものは,
5世紀につくられた全長が486mの大仙古墳である。
古墳のまわりや頂上には,
人や動物をかたどったはにわが置かれた。

 大和政権の勢力範囲



大型の前方後円墳が最も集中している地域は
大和政権が生まれた近畿地方であるが,
図のように九州から東北地方南部にも分布しているのがわかる。

また,稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣や
江田船山古墳(熊本県)出土の鉄刀には,
「ワカタケル大王」の名が刻まれている。

これらのことから,
5世紀には,大和政権の王は九州地方から東北地方南部に至る
各地の豪族を従え,大王と呼ばれていたことがわかる。

 大和政権と中国・朝鮮との交流-朝鮮半島の国々



中国では,4世紀ごろから国内が分裂し,
やがて5世紀ごろから,南と北とに分かれて,
国々の対立が続いた(南北朝時代)。

これによって,中国の朝鮮半島への支配力が弱まり,
高句麗が楽浪郡を滅ぼして勢力をのばした。
ついで,新羅と百済がおこった。

・高句麗:4世紀はじめに楽浪郡を滅ぼし,
     このころの朝鮮半島ではもっとも強力であった。
     日本が伽耶(任那)の国々や百済と結んで
     高句麗や新羅と戦ったことが,
     高句麗の好太王碑に記されている。
・新羅:後に(7世紀の後半),他国を滅ぼし朝鮮半島を統一した。
・百済:538年に日本に仏教を伝えた。
・伽耶(任那):大和政権は,朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために
       小国が分立していたこの地方と密接な関係を持っていた。

 伽耶

弥生時代の終わりごろから,鋤や鍬などに鉄の刃先を使うことが広まった。
鉄製の農具は,耕地や水路を広げるのに役だち,
生産力が大きく高まった。
また,武器もおもに鉄製の物が使われた。

各地の豪族たちは鉄を重要視したが,
当時の日本列島には,鉄をつくり出す技術はまだなく,
延べ板のような形で朝鮮半島の伽耶から輸入していた。
自分たちの力だけでは
朝鮮半島から必要な量の鉄を手に入れられなかった各地の豪族は,
ときには鉄をめぐって大きな争いを起こした。

そこで各地の豪族は,鉄が豊富な朝鮮半島とつながりのあった
大和政権と結びつきを強めようとした。
大和政権は,豪族たちに朝鮮半島からの鉄や技術などを与えるかわりに,
みつぎものや兵士の動員などを義務づけた。

 倭の五王



大和政権は,倭の王としての地位と,
朝鮮半島南部を軍事的に指揮する権利を
中国の皇帝から認めてもらうために,
しばしば中国の南朝に使いを送った。

倭の五王が南朝の宋にたびたび使いを送ったことは
宋書倭国伝に記されている。

 先頭に戻る


 飛鳥
 [要点-飛鳥]
 
 年代  おもなできごと
 589年  が中国を統一する
 593年  聖徳太子が推古天皇の摂政になる。(蘇我馬子が協力)
 603年  冠位十二階を制定(家柄や出身に関係なく才能のある人物を役人に登用)
 604年  十七条の憲法を制定(「一に曰く,和をもって貴しとなし・・・」)
 607年  遣隋使(小野妹子を中国の隋に派遣)
聖徳太子が法隆寺を建立→仏教の影響を受けた飛鳥文化
 618年  が中国を統一する
 645年  大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼす)
 →公地公民,唐を手本として改革に着手
 663年  白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れる
 →中大兄皇子は即位して天智天皇になり,国内の改革に専念
 672年  壬申の乱(天智天皇の死後,後継者の地位をめぐる争い)
 →勝利を得て,天武天皇が即位

593年聖徳太子推古天皇の摂政となり,蘇我馬子と協力して政治改革を進めた。
まず,家柄にとらわれずに,有能な人物を役人にとりたてる冠位十二階の制度をつくった。
また,十七条の憲法を定めて,役人の心得を示した。

さらに,中国の隋に,小野妹子らを遣隋使として送った。
聖徳太子は,仏教をさかんにするため,大和の斑鳩地方に法隆寺を建てた。
この時代の文化を飛鳥文化という。

 聖徳太子の政治改革-聖徳太子が摂政となる

 

6世紀になると,地方で豪族が反乱を起こし,
中央でも蘇我氏や物部氏が権力争いを繰り広げていた。

蘇我氏は,外国の宗教である仏教をとり入れようとして,
これに反対する物部氏と争って滅ぼし,政府内で大きな力をふるった。

一方,中国では589年に隋が中国を統一して強大な帝国をつくりあげ,
国際的緊張が高まった。
こうした内外の情勢の中,593年に女性の推古天皇が即位し,
そのおいの聖徳太子が摂政になった。

摂政とは,天皇が女性であったり
幼少であったりするときに置かれることがあり,
天皇の代理として政治を行う役職である。
聖徳太子は蘇我馬子と協力して政治制度を整えようとした。

当時の政治の中心は飛鳥地方であった。

 冠位十二階



聖徳太子は,国家の仕組みを整えるため,
603年に冠位十二階を,604年に十七条の憲法を定めた。

冠位十二階は,役人の位を冠の色(紫色が最高位)で区別する制度で,
家柄にとらわれず,才能や功績のある人物を
役人に取り立てようとするものであった。

 十七条の憲法



聖徳太子は,604年に十七条の憲法を定め,
仏教を重んじるべきことや天皇の命令に従うべきことなど,
役人の心構えを示した。
①「一に曰く,和をもって貴しとなし,さからうことなきを宗とせよ」とは
 「和を尊び,争いをやめよ」という意味である。
 この記述からも,当時,豪族間の対立が激しかったことがわかる。
②「二に曰く,あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とは
 「仏教を重んじよ」という意味である。
 仏教をさかんにすることで豪族間の対立をやわらげ,
 仏教を共通の信仰として国家の統一をはかろうとした。
③「三に曰く,詔をうけたまわりては必ずつつしめ」とは
 「天皇の命令を受けたときは,必ずこれに従え」という意味である。
 この当時,天皇(大王)の命令(詔)が必ずしも
 遵守されていなかったことがうかがえる。
 このころの大和政権は,豪族の連合政権であり,
 天皇(大王)の権力は絶対的なものではなかった。

 遣隋使



589年に隋が中国を統一し,強大な帝国をつくりあげた。
聖徳太子は,東アジアでの立場を有利にし,
隋の進んだ制度や文化を取り入れようと,
607年に小野妹子を遣隋使として派遣した。

聖徳太子が隋の皇帝にあてた国書には,
「日出づる処の天子,書を日没する処の天子にいたす。つつがなきや」とあった。
「日出づる処の天子」とは,太陽の昇る東の方にある国,
すなわち日本の天皇のことであり,
「日没する処の天子」とは,日が沈む西の方向にある国,
すなわち中国の皇帝のことをさしている。

隋の皇帝は「蛮人たちの手紙には無礼なものがある。
そういったものは,もう二度と耳に入れるな」と怒ったという。
聖徳太子は,以前の朝貢外交ではなく,対等な立場での国交を求めたのである。

隋は大運河の建設や外征を行ったが,
兵役や重税に苦しむ農民の反乱によって滅び,
618年に唐が中国を統一した。
遣隋使が持ち帰った中国の文化により,
日本で始めての仏教文化が栄えた。

 飛鳥文化





聖徳太子は,仏教をさかんにすることで豪族間の対立をやわらげ,
仏教を共通の信仰として国家の統一をはかろうとした。

聖徳太子が建てた法隆寺は,一度焼失したが,その後,再建され,
現存する世界最古の木造建として世界遺産にも登録されている。

飛鳥地方を中心に日本で最初の仏教文化が栄えたが,
これを飛鳥文化といい,
法隆寺の釈迦三尊像や法隆寺金堂の壁画がその代表とされている。

 [要点-大化改新]
 
中大兄皇子中臣鎌足は,645年蘇我氏を倒して,唐を手本とし公地公民を大原則とする改革に乗り出した。
この一連の改革を大化の改新という。

このころ,新羅は朝鮮半島を統一すべく唐と連合して百済を滅ぼそうとした。
中大兄皇子は,百済に援軍を送ったが,白村江の戦いで破れ,天智天皇となり,国内の改革に専念した。

天智天皇の死後,672年,後継ぎの地位をめぐって壬申の乱がおきた。
この争いに勝った大海人皇子は即位して天武天皇になった。
 大化の改新
 


7世紀の中ごろ,唐は高句麗を攻撃し,朝鮮半島の緊張が高まっていた。
日本でも,戦争に備え,
天皇中心の強力な中央集権国家づくりを急ぐ必要があった。

しかし,聖徳太子の死後,
蘇我氏は聖徳太子の一族を滅ぼして大きな力をふるっており,
中央集権国家とはほど遠い状態だった。

そこで,中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちに藤原鎌足)は,
645年に蘇我氏(蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子)を滅ぼして実権をにぎり,
改革を始めた。

中大兄皇子は,大化という年号を定め,
翌年,全国の土地と人々を国家のものとし,
天皇がそれを支配するという公地・公民の方針を打ち出した。
この一連の改革を大化の改新という。

 白村江の戦い
 


隋は,7世紀の初めには,高句麗への攻撃の失敗などが原因で滅び,
新たに唐が中国を統一した。
7世紀後半,朝鮮半島では新羅が統一にのりだし,
唐と連合して660年に百済を滅ぼした。
百済ではそののちも豪族が兵を集めて唐や新羅の軍に抵抗し,
日本に救援を求めてきた。

中大兄皇子は,百済を助けるために大軍を送ったが,
663年の白村江の戦いでやぶれ,以後,朝鮮半島から手を引いた。

中大兄皇子は,唐や新羅の来襲に備え,
太宰府を守るために水城と大野城を築き,
また防人という兵士を配置した。

中大兄皇子は即位して天智天皇となり,国内の改革に専念した。
新羅はそののち,唐と連合して高句麗をも滅ぼし,
さらに676年には唐の勢力を追い出して,朝鮮半島を統一した。

 壬申の乱
 


大化の改新以来,
30年近くも政治にあたっていた天智天皇が死去した翌672年,
天智天皇の子である大友皇子に対して,
天智天皇の弟である大海人皇子が挙兵して
天皇の位をめぐる戦いがおこった。
これを壬申(じんしん)の乱という。

大海人皇子は各地の兵力を結集して勝利をおさめ,
大友皇子は自害して果てた。
戦いに勝った大海人皇子は,即位して天武天皇になった。

壬申の乱によって,
大友皇子側についた有力中央豪族が没落したことで,
強大な権力を手にした天武天皇を中心に
中央集権的国家体制の形成が進んだ。
このころ,天皇の権威が高まり,
神としてあがめようとする天皇の神格化が始まったとされる。

天武天皇は,ふたたび飛鳥に都を移して
律令や歴史書の編さんを命ずるなど,
新しい政治のしくみを強力につくりあげていった。

天武天皇の死後は,皇后であった持統天皇が事業を引き継いだ。
持統天皇は,道路によってごばんの目のように区画された,
日本ではじめての本格的な都である藤原京をつくるなどして,
律令制度を実施する準備を整えた。

 先頭に戻る


 奈良
 [要点-奈良時代]
 
 年代  おもなできごと
 701年  大宝律令が制定される
 708年  和同開珎という銅銭が作られる
 710年  平城京遷都:唐の長安を手本にした都,794年までを奈良時代という
 ・中央に二官八省,地方には国司郡司,九州には太宰府
 ・班田収授法:6歳以上の人々に口分田が与えられ,死ねば国に返させる
 ・税や兵役:租(稲)・(布など)・調(特産物)・雑徭防人出挙
 743年  墾田永年私財法→公地公民の否定,荘園の始まり

(1)
701年大宝律令によって,律令国家のしくみがととのい,710年には奈良に都がうつされた。
唐の都長安にならってつくられたこの都を平城京という。
中央には二官八省の役所がおかれ,国ごとに国司がおかれた。
九州には太宰府が設置された。

(2)
6年ごとに作られる戸籍にもとづいて6歳以上の男女口分田を分け与え死ねば返させる班田収授法が定められた。
その一方で(収穫した稲の3%),(成年男子に布で納めさせた),調(地方の特産物),雑徭(国司のもとで年間60日以内の労働を行う)などの重い税を課し,高利で稲を強制的に貸し付ける出挙も行われた。
また九州の防備のための防人という兵役もあった。

(3)
重い税にたえかねて口分田をすてて逃亡する農民がふえて田は荒れ,人口増加もあって口分田が不足するようになった。
これに対処するため,743年墾田永年私財法を出して,土地をあらたに開墾した場合は,永久に私有を認めることとした。
その結果,貴族や寺社などが,逃亡してきた農民などを使って開墾を進めた。
これが荘園の始まりである。

 律令国家の成立-大宝律令



壬申の乱によって,巨大な兵力と権力をにぎった天武天皇は,
その権力を背景に天皇中心の政治を行い,
中央集権国家建設の事業を強力に推し進めた。

天武天皇の死後は,皇后であった持統天皇が事業を引き継いだ。
こうして,天武・持統両天皇の時代に,
大化の改新以来の中央集権国家建設の事業は,ようやく完成に近づいた。

701年に大宝律令が完成し,律令政治のしくみがととのった。
大宝律令は唐の律令を手本としたものである。

「律」は刑罰のきまりで,
「令」は行政組織や租税や労役,役人の服務規程など,
国家統治に必要なさまざまな条項を定めたものである。

律令に基づいて政治を行う国家を律令国家という。
有力豪族は貴族とされて律令国家に組み込まれ,
それまでの豪族の支配から天皇が中心になって
全国を統一して支配する仕組みが整った。

 律令による役所のしくみ



大宝律令で定められた統治組織は,
中央に,神々の祭りの儀式をつかさどる神祇官と,
一般政務をつかさどる太政官の二官があり,
太政官のもとには八つの省がおかれた。

地方は66の国に分けられ,中央の貴族が国司として派遣された。
国はさらに郡に分けられ,地方の豪族から選ばれた郡司に治めさせた。
さらに,九州には,九州地方の政治のほかに
外交や防衛にあたる太宰府がおかれた。

現在の宮城県には,東北地方の政治や軍事を担当する
多賀城が設置された。

 平城京



7世紀後半の天武天皇以降,
天皇中心の中央集権化された律令国家が完成し,
701年には大宝律令がつくられた。

それまで,都は天皇が変わるたびに,変えられていたが,
律令国家の新しい都として,
710年に,現在の奈良県に平城京がつくられた。
以後,約80年間を奈良時代という。

平城京は,唐の都長安を手本にしたもので,
広い道路によってごばんの目のように整然と区画され,
中央を南北に走る朱雀大路によって
左京と右京にわけられていた。

このような大規模な都がつくられたのは,
中央集権的な国家体制がととのい,
国家の富が天皇・貴族に集中したためであった。

 和同開珎



わが国最古の貨幣は富本銭である。
また,武蔵国から銅が産出されたのを記念して,
708年に和同開珎が作られた。

平城京には東西に市がおかれ,さまざまな品物が取り引きされたが,
和同開珎はそのときに使用されたと考えられる。

しかし,一般には稲や布などの物品による取引が行われていたために,
平城京やその付近以外では流通しなかった。

 班田収授法と税制-班田収授法



645年に始まる大化の改新によって,
それまで豪族が支配してきた土地と人々を
国のものとする公地・公民の方針が定められた。

しかし,実際に公地・公民の方針を具体化できたのは,
672年の壬申の乱に勝利して天皇中心の中央集権を実現した
天武天皇とそのあとを継いだ持統天皇以降であった。

持統天皇のもとで,班田収授の基礎となる戸籍が整備され,
692年に全国的な班田収授が始まった。

701年の大宝律令で律令制度が完成したが,
この律令制度の下では,6年ごとに戸籍がつくられ,
人々は,良民と賤民に分けて登録された。

戸籍に登録された6歳以上のすべての人々に口分田があたえられ,
死ぬと国に返させた。
この制度を班田収授法という。

 税制・兵役
 


農民は班田収授法によって,
男子は2段(約2300m2),
女子にはその3分の2の口分田が貸し与えられたが,
その反面で,租・庸・調・雑徭などの重い税負担が課せられた。

租は口分田にかかる税で,
1段あたり2束2把(収穫高の約3%)を納める比較的に軽いものであった。
しかし,成年男子にかかる庸(労役のかわりに布(麻布)を納める),
調(地方の特産物などを納める)は,
農民自身の手で都に運ばねばならず,
行き帰りの食料などすべて農民自身の自己負担であったため,
限度をこえた重すぎる負担であった。

また,雑徭は成年男子に課せられ,
国司の命令で,年間最大で60日の労役を提供するものであった。
さらに,成年男子3~4人に1人の割合で兵士が徴発された。

兵士は諸国におかれた軍団で訓練を受け,
一部は都へ送られて衛士となり,
一部は九州北部を守る防人となった。
兵士は,武装や食料などを自分で負担しなければならなかったから,
その負担はひじょうに重かった。
また,兵士を出すことはその家にとっても働き手をとられることになり,
大きな負担であった。

このような重い税負担と働き手を労役や兵役にとられてしまうため,
春から夏には,種もみや食べる米がなくなってしまう人々も多かった。
かれらは国司や豪族から稲を借りてしのいだが,
秋には高い利息(5割という高利)をつけて返さなければならなかった。
これを出挙というが,のちには強制的に貸し付けられるようになり,
人々には税と同じものであった。



班田収授法と租・庸・調・雑徭などの税制は,
唐の制度をモデルにしてつくられたものであるが,
農民にとっては限度を超えた重すぎる負担であった。

租は収穫高の約3%と比較的軽かったが,
男子にかかる庸や調をあわせた税負担はかなり重いものであった。
庸や調は農民たち自身の手で都に運ばなければならず,
雑徭といって国司のもとで年間60日の労役を課せられた。

さらに,成年男子3~4人に1人の割合で兵役の義務があった。
農民にとって,これらの負担はきわめて重く,
農作業に必要な時間までうばわれてしまった。
天候の不順や害虫などのためにききんが起こりやすく,
わずかなことで生計が成り立たなくなることも多かった。

山上憶良の貧窮問答歌(万葉集に収録されている)は,
農民の苦しい生活を貴族である憶良がかわってよんだものである。

 墾田永年私財法
 


奈良時代,鉄製農具が普及し,稲の収穫は増えてきた。
しかし,人口が増加したために口分田が不足するようになっていた。

そこで,743年,聖武天皇は墾田永年私財法を出して,
新しく開墾した土地の私有を認めることとした。
ただし,私有地であっても租は課税された。

墾田永年私財法が出されると,
貴族や寺院は,逃亡してきた農民などを使って開墾を進め,
広い私有地をもつようになった。
これが荘園の始まりである。

墾田永年私財法によって,耕地面積が拡大し税収が増加した。
しかし,土地の私有を認めた結果,
公地・公民の原則はくずれることになった。

 [要点-天平文化]
 
(1)
天平文化は,唐と仏教の影響を受けたはなやかな文化である。
聖武天皇は,国王が仏教を厚く信仰すれば,わざわいがなくなり国が治まるという教えにもとづき,奈良には東大寺大仏を,地方ごとに国分寺国分尼寺をつくらせた。

(2)
この時代に遣唐使が派遣され,唐の制度や文化が取り入れられた。
東大寺の正倉院には,遣唐使が持ち帰った工芸品がおさめられている。
また,唐の僧である鑑真は失敗を重ね,盲目になりながらも,ようやく来日し,日本に仏教を伝えた。

(3)
この時代の和歌集としては万葉集があり,万葉仮名が使われている。
歴史書としては古事記日本書紀がある。
また,国ごとに産物や歴史を記した風土記がつくられた。

 天平文化-遣唐使と正倉院
 


奈良時代には,仏教と唐の文化の影響を受けた国際的な文化が栄えた。
この文化は聖武天皇の天平年間にもっとも栄えたので,
天平文化と呼ばれている。

遣唐使は630年から,
894年に菅原道真の建議によって廃止されるまでの約260年間に
10数回派遣され,唐の文化や制度を取り入れた。

東大寺の正倉院には,聖武天皇の身のまわりの品や
工芸品が納められている。
上のガラス製の容器,五絃琵琶は西アジアやインドから
シルクロードを通って唐に運ばれ,
それを遣唐使が持ち帰ったものである。

こうしたことから,正倉院は「シルクロードの終着駅」ともいわれる。
正倉院は三角材をつみあげた校倉造で,
高床式の構造になっている。

 鑑真など
 


唐の僧である鑑真は仏教の戒律を日本へ伝えるため,
日本に渡ろうとしていくども遭難し,
盲目になりながらも6度目に日本への渡航に成功し,
のちに,唐招提寺を開いた。

阿倍仲麻呂は,留学生として唐にわたり,
唐の政府に仕え,唐で一生を終えた人物である。

 仏教
 


奈良時代の8世紀の中ごろ,
農民は重税や伝染病に苦しみ,皇族や貴族の間では争いが激しくなった。
当時,仏教は国家を守り,政治を安定させる力を持つと考えられていた。

聖武天皇は,仏教をさかんにすることによって,
社会や政治の混乱をのりこえようとした。

そこで,国ごとに国分寺と国分尼寺,
都には東大寺を建て大仏をつくった。

 歴史書・和歌集



天皇中心の中央集権国家ができあがったのは,
672年の壬申の乱に勝利をおさめた天武天皇の時代であった。

国家のしくみが整ってくると,日本の国のおこりや,
天皇が国を治める正当性を明示するために
歴史書の編さんがおこなわれた。

天武天皇の時代に始められた歴史書の編さん事業は奈良時代に完成し,
日本書紀と古事記が作られた。
国ごとには,地理や産物,言い伝えなどをまとめた風土記が作られた。

また,天皇・貴族や農民などの和歌4500首ほどを集めた万葉集が作られた。
万葉集では,漢字の音で日本語を表す万葉仮名が使われている。

 先頭に戻る

 平安
 [要点-平安時代]
 
 年代  おもなできごと
 794年  桓武天皇が都を平安京に移す
 801年  坂上田村麻呂征夷大将軍に任命され蝦夷の反乱をおさえる
 9世紀初  最澄比叡山延暦寺を建て天台宗を開く
空海高野山金剛峯寺を建て真言宗を開く
 894年  中国の国内が乱れ,国力がおとろえたので遣唐使を停止する。
 9世紀後半  藤原氏摂関政治をはじめる(天皇の幼少時は摂政,成人後は関白)
わが国独自の国風文化が栄える
仮名文字の発明→紫式部の源氏物語,清少納言の枕草子,
古今和歌集寝殿造大和絵
 935年  関東で平将門が反乱を起こす
 939年  瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こす
 11世紀前半  藤原道長・藤原頼通親子のとき:摂関政治の最盛期
藤原頼通は,浄土信仰の影響を受けた平等院鳳凰堂を宇治に建てた
 1086年  白河上皇院政をはじめる
 1156年  保元の乱がおこる
 1159年  平治の乱がおこる(平氏と源氏の争い→平清盛が勝利)
 1167年  平清盛太政大臣となる,兵庫の港を整備して中国のと貿易

(1)
8世紀後半,朝廷内の争いや僧の政治への口出しが多くなった。
桓武天皇は,794年平安京に都を移して政治の改革に着手した。
桓武天皇は, 坂上田村麻呂征夷大将軍に任命して蝦夷の反乱を鎮圧させた。
また,奈良仏教に対抗させるために真言宗の開祖である空海と,天台宗の開祖である最澄を保護した。

(2)
9世紀に唐の勢力は急速におとろえた。
894年に遣唐使に任命された菅原道真は,唐のおとろえと往復の危険を理由に遣唐使の停止をうったえて認められ,これ以降遣唐使は派遣されなかった。
唐は10世紀のはじめにほろび,小国の分立を経て,が中国を統一した。
同じころ朝鮮半島には高麗がおこった。
これらの国との公式な交流はなかったが,商人たちが日本に文物をもたらした。

 桓武天皇-平安京遷都



奈良時代,律令制度が行きづまり,
さらに朝廷では皇族・貴族の勢力争いが激しくなり,
僧も政治に口出しするようになった。

桓武天皇は律令政治を立て直すために,
794年,都を平安京(今の京都市)に移した。
そのさい,仏教を政治と切り離すために,
奈良にある寺が平安京に移ることを禁じた。

下記の図で平安京は,現在の京都市で,
琵琶湖の南端の西側のウの位置である。
アは難波京,イは平城京である。



下記の図で
Aは奈良時代に聖武天皇が建てた東大寺や,
鑑真が建てた唐招提寺があるので平城京である。
Bは平安京である。



 蝦夷



奈良時代のころ,
律令国家の支配が及んだのは関東地方までであった。
東北地方に住む人々は,
朝廷から異種の文化をもつ異民族あつかいされ,
蝦夷とよばれた。
(九州南部に住む人々も異民族あつかいにされ,
隼人とよばれた。) 

朝廷はしだいに東北地方への支配を拡大していったが,
これに対し蝦夷の人々は,
アテルイを指導者として激しく抵抗を行った。

桓武天皇は,坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して,
4万の大軍を送ってアテルイの軍を降伏させ,
支配を拡大させた。

 空海と最澄



奈良時代に仏教が政治と結びついて腐敗したため,
桓武天皇は僧侶の資格を厳しくするなどして,
それをあらためようとした。

これに応じて仏教界にも改革の動きがおこった。
最澄と空海は,教典の研究を中心とする奈良仏教にあきたらず,
仏教の本来のあり方を求めて修行を重ね,
遣唐使にしたがって唐に渡った。

帰国後,最澄は比叡山に延暦寺)を建てて天台宗を,
空海は高野山に金剛峯寺(金剛峰寺)を建てて
真言宗を広めた。

 [要点-摂関政治]
 
9世紀中ごろから藤原氏が勢力をのばし,娘を天皇のきさきにして,孫である皇子を天皇にたてた。
天皇が幼少のときは摂政として,成人してからは関白として政治の実権を握った。
これを摂関政治という。

11世紀の藤原道長・藤原頼通親子のときがその最盛期であった。
藤原頼通は,浄土信仰の影響を受けた平等院鳳凰堂宇治に建てた。

 摂関政治



他の貴族をしりぞけて勢力を伸ばした藤原氏は,
自分の娘を天皇のきさきとし,
生まれた皇子を,小さいうちから天皇に立て,
天皇の外戚(母方の親戚)として勢力をふるった。

天皇が幼いときは,摂政,
成人してからは関白の職につき,
政治の実権を握った。
これを摂関(せっかん)政治という。

藤原氏は11世紀の頃の藤原道長とその子藤原頼通の時代に
全盛期を迎えた。
藤原道長は4人の娘をつぎつぎに皇后や皇太子妃とし,
30年にわたって権勢をふるった。
その子頼通は3天皇50年間にわたって摂政・関白をつとめた。

頼通は,浄土信仰の影響を受けて,宇治に平等院鳳凰堂をつくった。



平安時代のはじめ(9世紀前半),
桓武天皇などの時代は天皇が強い権力をにぎっていた。

しかし,9世紀の中ごろ~後半に,
資料にある藤原良房は臣下で初めて摂政となり,
藤原基経は関白になった。

その後,つねに摂政・関白がおかれるようになり,
藤原氏の摂関政治が行われた。

摂関政治の絶頂期は,
藤原道長(1016年に摂政になる)と
その子頼通が権勢を誇った11世紀であった。



大化の改新~奈良時代~平安時代と,
藤原氏は他の貴族をしりぞけて次第に権力を握っていったが,
その秘訣は,自分の娘を天皇のきさきとすることであった。

藤原氏の全盛時代を築いた藤原道長は4人の娘を
次々に皇后や皇太子妃として,
30年にわたって朝廷内で大きな権勢をふるった。

当時の貴族社会では,子供は母方の家で養育される習慣であった。
天皇と藤原氏の娘であるきさきとの間に生まれた男の子(将来の天皇)は,
きさきの実家である藤原氏のもとで育てられたので,
おじいさんである藤原道長は将来の天皇になるこの男の子にとって
身近な存在となった。

幼くして即位した場合,
道長がその後見役(摂政)になるのは自然の成り行きである。
道長は,娘の一人を天皇のきさきとすることに成功したとき,
自分の権勢が絶頂期にあるうれしさを
「この世をばわが世とぞ思う 望月の 欠けたることも 
無しと思えば」という歌で表している。

さらに,藤原道長の子である頼通は,
3天皇50年間にわたって摂政・関白をつとめ,
我が世の栄華を楽しんだ。

 荘園の発達



荘園が発生したのは,奈良時代に墾田永年私財法(743年)が出された後である。
貴族や寺院は,浮浪農民を使って荒れ地を開墾し,
荘園という私有地を獲得していった。

このような初期の荘園は,私有地であるが,
租税を納める義務は負っていた。

しかし,やがて,藤原氏などの貴族や有力寺院はその権威を悪用して,
自分の荘園を「これは田ではなく,自分の邸宅の庭(荘園)である」という
理屈をつけて,租税がかからないようにしていった。

10世紀後半になると,地方の豪族や有力農民の中には
荒れ地を開墾して私有地を広げる者が出てきた。

彼らは土地にかかる租税を逃れるために,
土地を藤原氏などの有力貴族や大きな寺院に寄進して,
税の免除を受け,自分は名目上荘官になって,
有力貴族等に(税よりは少ない)年貢を納めるようになった。

税を国に納めなくてよい権利を不輸の権という。
そして,国司の使者の立ち入りを拒む不入の権をも獲得した。

このようにして,藤原氏へ寄進される荘園が増加し,
そこから上がってくる年貢によって,華やかでぜいたくな生活を送った。
藤原氏繁栄の経済的基礎は荘園という私有地であった。

 税制
 
班田収授法と租庸調の税制は,
すでに奈良時代に行きづまっていたが,
平安時代にはいり,
班田の給付はほとんど行われなくなっていた。

このままでは財政を維持することが難しくなったため,
朝廷は,10世紀にはいって方針を変更し,
国司に一定額の税の納入を請け負わせるかわりに,
その国の統治をすべてまかせるようになった。

国司は,やがて課税率をある程度自由にきめることができるようになり,
私腹を肥やし,巨利をむさぶる者が現れた。
国司の中には強欲な者も少なからずおり,
尾張国の国司のように有力農民や郡司によって,
その暴政を訴えられる者もあった。

こうした国司の不正に対して
取り締まりをおこなうべき中央政府(藤原氏の摂関政治)は,
とんど何もせず,それどころか,
国司の官職を売買することが行われていたのである。

摂関政治のころには,
朝廷の政治は先例や儀式を重んじる形式的なものとなり,
国政に関して積極的な政策をとることはほとんど見られなくなっていた。

 武士の発生



摂関政治では,地方の政治は国司まかせで,
本来なすべき国司への監督も怠っていた。
国司は,4年の任期中に私腹を肥やすことには熱心であったが,
治安の維持などの本来の職務を怠ることが多かった。

このころ,荒れ地を開墾して荘園という私有地を広げるなどして,
有力農民や豪族が成長していった。

国司が暴政を行い,政治が乱れてくると,
土地所有権をめぐって国司と豪族・有力農民,
豪族・有力農民どうしの争いがおこり,
また,盗賊の横行など治安の乱れもひどくなってきた。

こうした状況の中で,
豪族や有力な農民は土地を守るために弓矢や刀で武装するようになり,
国司の税の取り立てに対抗したり,
たがいに土地をめぐって争ったりするようになった。

当時の武士の考え方を表す言葉として
「一所懸命(いっしょけんめい)」というのがある。
「一所」(一つの場所=自分の土地)に「命を懸(か)ける」という意味である。
当時の武士(地方豪族や農民の中で武装した者)にとって
最も大切なものは土地であった。
土地を奪われてしまえば,
本人だけでなく家族ものたれ死にする以外になかったからである。

武士は,地方では実力をもっていても,貴族からは低くあつかわれていた。
そこで,天皇の子孫で源・平の姓もつ貴族や,
藤原氏の一族が国司として地方に来ると,
その家来になったり,彼らと婚姻関係を結んだりして,
生まれた子に源氏や平氏などの一族だと名のらせた。
このようにして源氏・平氏などの武士団が生まれ,
そのリーダーは棟梁とよばれた。

 武士の反乱



10世紀の半ば,東西で武士の反乱がおこった。
関東では,935年に平将門が国の役所を襲い,
自ら新皇(新しい天皇)と名のり,一時期,関東地方の大半を支配した。

また,瀬戸内では藤原純友が海賊を率いて,
国の役所や太宰府をおそった。

朝廷は,武士の力をかりて,この2つの反乱をようやくしずめることができた。
東北では,蝦夷の子孫である阿倍氏や清原氏が力をのばしていたが,
11世紀の後半に,かれらの勢力争いで前九年・後三年の役がおこった。

朝廷から派遣された源義家が,関東の武士を率いてこれをしずめたので,
源氏の武士団は東日本で大きな勢力となっていった。

後三年の役以降,陸奥・出羽地方を支配したのは奥州藤原氏であった。
奥州藤原氏は平泉を根拠地として栄え,
浄土信仰の影響を受けた中尊寺金色堂を建てた。

 遣唐使の廃止

 

7世紀の初めに隋にかわって中国を統一した唐は,
その後,発展をとげた。
日本は遣唐使を通じてその文化や政治制度を取り入れ,
奈良時代には唐の影響を強く受けた天平文化が栄えた。

しかし,9世紀後半には唐の勢力が衰え,
もうそれ以上学び取るべきものは少なくなっていた。
また,当時の船は平底で横波に極端に弱かったため,
嵐にあって遭難する確率が非常に高かった。

遣唐使に任命された菅原道真は,
894年,遣唐使廃止の建白を出して承認された。

菅原道真は,藤原氏を押さえるために
天皇によって引き立てられた人であるが,
その後,藤原氏の陰謀によって太宰府に左遷された。

中国では,唐が10世紀の初めに滅び,
数十年の内乱の後,10世紀後半に宋が国内を統一した。
宋では,火薬・羅針盤・活字が発明された。

 [要点-文化の国風化]
 
平安時代半ばには文化の日本化が進んだ。これを国風文化という。

貴族の住居は自然を取り入れた寝殿造となり,絵画では大和絵が描かれた。

また,仮名文字の発明によって文学が発達した。
紫式部源氏物語清少納言枕草子紀貫之らが編集した古今和歌集が代表的作品である。
 国風文化



遣唐使の廃止によって,唐文化の影響がうすれ,
日本の風土や生活感情に合った日本独自の文化が発展した。
これを国風文化という。

国風文化のなかで一番重要なのは,
わが国独自のかな文字が発明されたことである。
それまで,文章は漢字を用いて漢文で書くか,
万葉がなのように漢字の音を借用して書き表すよりなかった。

そこで,漢字の一部をとってカタカナが作られ,
万葉がなに使われた漢字のくずし字からひらがなが作られた。
ひらがなはおもに女性の間で使われた。

かな文字は,それまでの漢文と違って,
細やかな感情をそのまま書き表すことを可能にし,
国文学の発達をもたらした。

小説では紫式部の源氏物語,
随筆では清少納言の枕草子が代表的作品である。
和歌の分野では,紀貫之が編集した古今和歌集が名高い。

 浄土信仰

 

平安時代中ごろ,盗賊の横行など社会が乱れ,
地震・火災・日照り・洪水などの災害もひんぱんに起こった。

このころ,シャカの死後2000年から
末法の世になるという末法思想が広まり,
阿弥陀仏にすがって極楽浄土に生まれ変わろうという
浄土信仰が,不安をつのらせた貴族や庶民の心をとらえた。

藤原頼通は,この世に極楽浄土のようすを表そうとして,
宇治に寝殿造の平等院鳳凰堂(右図)を建てた。

 文化



Aの法隆寺は,飛鳥時代に聖徳太子によって建てられたものである。
Bの平等院鳳凰堂は,平安時代に,浄土信仰の影響を受けた
 藤原頼通によって建てられたものである。
Cの琵琶は,奈良時代の東大寺の正倉院におさめられている。

 [要点-武士の登場・院政・平清盛]
 
(1)
中央の武官と地方の豪族との,婚姻や主従関係を結ぶなどの交流の中から武士がおこり,源氏平氏などの武士団が生まれた。

10世紀の中ごろ,関東では平将門が乱を起こし,瀬戸内では藤原純友が乱を起こした。

東北地方では,奥州藤原氏が勢力をのばし,浄土信仰の影響を受けて平泉中尊寺金色堂)をつくった。

(2)
白河天皇は,位を皇子にゆずってからも上皇として政治の実権を握った。
これが院政の始まりである。

1156年保元の乱1159年平治の乱がおこった。
これに勝利した平清盛は,1167年太政大臣となって政治の実権をにぎった。
平清盛は,兵庫の港を整備して中国のとの間の貿易を積極的に行った。

 院政



摂関政治の最盛期は
11世紀前半~中頃の藤原道長・藤原頼通親子の時代であったが,
藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったので,
1068年に藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し,
荘園の整理などを行った。

その後を継いだ白河天皇は東国に勢力をもつ源氏と,
西国に勢力をのばした平氏を用いて,新しい政治を行った。

白河天皇は,位を幼い皇子にゆずって上皇になってからも
政治の実権を握り,
藤原氏に不満をもつ下級貴族等の支持を受けて,
摂政・関白をおさえて院政を行った。

 平氏政権



白河上皇のあとも約100年間,院政が続いた。
1156年,上皇と天皇があとつぎをめぐって対立して保元の乱が起こった。

このときに活躍した平清盛と源義朝は,その後対立を深め,
1159年,義朝が清盛を討とうとして敗れ,
義朝の子頼朝は伊豆に流された。これを平治の乱という。

戦いに勝った平清盛は,
1167年,武士としてはじめて太政大臣となり政治の実権をにぎった。



平清盛は,兵庫の港(大輪田泊)を整備して,
中国の宋との貿易を行った。

清盛は,娘を天皇のきさきとし,一族で高い官職を独占し,
多くの公領や荘園を支配した。

そのやり方は貴族とかわらないものであったため,
貴族や寺社の反感をかい,
地方の武士の中にも不満をいだく者が増えた。

 先頭に戻る


 鎌倉
 [要点-鎌倉時代]
 
 年代  おもなできごと
 1185年  源義経壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる
 1185年  源頼朝,朝廷に,国ごとに守護,荘園ごとに地頭を置くことを認めさせた
封建制度:本領安堵などの御恩と御家人の奉公
 1192年  源頼朝,朝廷より征夷大将軍に任じられる
頼朝の死後,実権は北条氏に移り,北条氏執権として権力をにぎった
 1221年  承久の乱,首謀者は後鳥羽上皇→乱後,朝廷監視のために六波羅探題を設置
 1232年  御成敗式目(領地や裁判などについての武士のならわしをまとめた法律)
 1274年  文永の役 弘安の役とあわせて元寇という。元の皇帝はフビライ・ハン
 1281年  弘安の役 幕府の執権は北条時宗
→元軍を撃退したが,御家人に恩賞を与えることができなかった→不満
 1297年  徳政令(御家人の救済が目的)
 1333年  鎌倉幕府滅亡

(1)
1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし, 朝廷に,国ごとに守護,荘園ごとに地頭を置くことを認めさせた。
1192年源頼朝は,征夷大将軍に任じられた。
源氏は三代で滅び,もっとも有力な御家人であった北条氏執権という地位について政治の実権を握った。

(2)
御家人は,将軍から領地を認められ,守護や地頭などに任じられた。
これを御恩といい,そのかわりに御家人は京都・鎌倉の警備にあたり,いざ戦いというときには一族郎党を率いて働いた。
これを奉公という。

(3)
1221年後鳥羽上皇は兵をあげたが,幕府の大軍に敗れ,隠岐に流された。
これを承久の乱という。
乱後,幕府は朝廷や西国の武士を監視するため,京都に六波羅探題を置いた。
1232年北条泰時は領地や裁判などについての武士のならわしをまとめて御成敗式目を定めた。

 源平の内乱



    

源頼朝は鎌倉にいて,弟の源義経らを派遣した。
義経は源義仲を倒し,一ノ谷の戦い,屋島の戦いで平家を破り,
1185年,壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させた。

源頼朝の巨大化を恐れた後白河上皇は,
頼朝と義経が不仲になったことにつけこみ,
義経に頼朝追討を命じた。

これに対して頼朝は軍を京都に送って後白河上皇にせまり,
国ごとに守護を,荘園や公領ごとに地頭を任命する権利を獲得し,
鎌倉を本拠地にして幕府を開いた。

守護はその国の御家人を統率し重い犯罪の取り締まりにあたった。
地頭は年貢の取りたてなどの荘園の管理にあたった。

義経は平泉の奥州藤原氏をたよって逃れた。
頼朝は義経をかくまったことを理由に,奥州藤原氏を攻め滅ぼし,
これまで独立性の強かった東北地方も支配下においた。

1192年,源頼朝は朝廷より征夷大将軍に任じられた。

 鎌倉幕府の成立



1185年,源頼朝は,国ごとに守護を,
荘園や公領ごとに地頭を任命する権利を獲得し,
鎌倉を本拠地にして鎌倉幕府を開いた。

守護はその国の御家人を統率し重い犯罪のとりしまりにあたった。
地頭は年貢の取りたてなどの荘園の管理にあたった。

1192年,源頼朝は朝廷より征夷大将軍に任じられた。
かつては,1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことをもって
鎌倉幕府の成立としていたが,
現在では,守護・地頭の任命権を獲得した1185年を
鎌倉幕府成立の時期とする説が有力になっている。

 鎌倉幕府のしくみ



鎌倉幕府の組織は,
御家人をまとめ軍事をあつかう侍所,
一般政務や財政をあつかう政所,
御家人からの訴えを裁く問注所からなっていた。

また,国ごとに守護を,荘園や公領ごとに地頭を置いた。
執権は将軍を助けて政治をおこなう最高職であるが,
これがもうけられたのは源頼朝の死後で,
北条氏がその職を独占し,幕府の実権をにぎった。

 御恩と奉公



御恩の中で一番重要なのは,
家来となった武士(御家人)の土地支配を保障したことであった。

源頼朝は御家人に対し,おもに地頭に任命することによって,
先祖伝来の所領の支配を保証した。

国衙や近隣諸勢力との争いに絶えず悩まされていた武士にとって,
「一所懸命」という言葉がしばしば用いられたほど大切だった
所領の領有を認めてもらうことは,何物にもかえがたい御恩であった。

このような御恩に対し,
御家人は,平時には,京都や鎌倉の警護にあたる義務を負い,
戦時には,命をかけて鎌倉殿のために戦った。
これが,奉公である。

さらに,鎌倉殿のために,命をかけて戦って てがらをたてたときには,
没収した敵の領地を恩賞として与えられたが,
これも御恩の1つである。

このような土地を仲立ちにした主従関係を封建制度という。

 武士の生活



(1) 平安時代,土地を開墾した豪族や有力な農民は,
  租税の負担をのがれるために有力貴族や寺社に土地を寄進して
  荘園としてもらい,自分は形式上は荘官として田畑を耕作した。

  また,かれらは,国司から公領の耕作を請け負い,
  一定額の年貢をおさめるかわりに耕作権を認められていた。
  豪族や有力農民の中で武装した者は,武士とよばれるようになった。
  武士は荘園や公領に堀と塀をめぐらせた館を構えて生活し,
  土地の開発を進め,下人や農民を使って農業を営んでいた。

(2) 武士は常に馬や弓矢の武芸によって心身をきたえた。
  武芸の訓練方法としては,例えば,
  馬の上から的にした笠を射る笠懸,
  馬の上から連続した3つの的を射る流鏑馬,
  走る馬の上から犬を射る犬追物などがある。

「弓矢の道」,「もののふの道」とよばれる,
名を重んじ,恥を知る態度などの武士らしい心構えが育っていった。

 武芸の訓練
 
ア 笠懸 イ 流鏑馬 ウ 犬追物


 承久の乱



1199年に源頼朝が死んで,頼朝の子の源頼家が二代将軍になったが,
母親の北条政子の実家である北条氏によって
暗殺されてしまう。

三代将軍源実朝も暗殺されて,源氏は三代で滅んでしまうことになる。
北条氏は他の有力御家人も滅ぼして執権として実権を握った。



武士の勢力が全国各地で伸びていくにつれて,朝廷や貴族の反感は強まった。
ことに公家の経済的基礎である荘園が地頭によっておかされつつあったことは,
危機感をいっそう増大させた。

源氏が三代で滅び,有力な御家人の争いが続いたが,
こうした幕府の動揺をチャンスとみた後鳥羽上皇は,
1221年に,執権北条義時追討の命令を出した。
これが承久の乱である。

この時代を「鎌倉時代」といっているが,
実質的には朝廷と幕府の二大勢力が共存しており,
天皇・上皇の朝廷の精神的な権威はいぜんとして大きかった。

この知らせを聞いた御家人たちは,
朝廷方と戦えば「朝敵」となるのではないかと動揺した。
しかし、御家人たちは,頼朝以前の悲惨な境遇を思い出し,
団結して朝廷に刃向かうことを決心したのである。

幕府は大軍を率いて上皇方を破り,
後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流された。

乱後,幕府は京都に六波羅探題という役所を置いて
朝廷を監視するとともに,
上皇方についた貴族や西国の武士の領地を取り上げ,
地頭に東国の御家人を任命した。
これによって,幕府の支配力は西日本にも強く及ぶようになった。

 御成敗式目



承久の乱の後,地頭の勢力が強くなり
荘園への支配権を拡大していったため,
荘園領主との間で争いがさらに激しくなった。

荘園領主は幕府に訴えて地頭の年貢未納をおさえようとした。
しかし,現地に根を下ろした地頭の行動を
阻止することは難しかったため,
荘園の半分を地頭に分けるなどの妥協が行われた。

このような状況に対処し,
公平な裁判制度を確立する目的もあって,
1232年,執権北条泰時は,裁判の基準として
御成敗式目(貞永式目)をつくった。

武士の社会で行われていた慣習にもとづいて,
御家人どうしや御家人と荘園領主の間の争い(土地争いなど)を
裁く基準を明かにしたものである。

この条文の中で注目すべきは,
「武士が20年の間,実際に土地を支配しているならば,
その権利を認める」ことを定めた条文で,
これによって,武士の土地所有権が法的にも保証されたのである。

 [要点-鎌倉文化]
 
(1)
法然は,浄土信仰を発展させた浄土宗を開き,
その弟子である親鸞は「悪人正機説」を唱えて浄土真宗を開いた。
一遍時宗を開き,各地をまわって踊念仏を広めた。

法華経こそ仏教の根本であると説いた日蓮日蓮宗を開いた。

また,宋にわたった栄西と道元は,禅宗を伝え,栄西臨済宗道元曹洞宗を開いた。

(2)
合戦のようすなどを描いた軍記物としては平家物語があり,琵琶法師によって人々に伝えられた。
随筆としては,吉田兼好徒然草鴨長明方丈記がある。
また,和歌集としては,新古今和歌集がある。

代表的な建築物としては東大寺南大門がある。
彫刻としては,運慶金剛力士像があり,東大寺南大門に置かれている。

 鎌倉時代の文化



 

鎌倉時代にあらわれた仏教の各宗派は簡単でわかりやすく,
実行しやすかったので,民衆の心をとらえ広がっていった。

第一は,平安時代の浄土信仰の流れをくむ念仏(南無阿弥陀仏)の系統である。
    法然は浄土宗を開き,きびしい修行を行わないでも,
    阿弥陀仏にすがり「南無阿弥陀仏」ととなえさえすれば
    極楽浄土に往生できると説いた。

法然の弟子の親鸞は浄土真宗を開き,悪人正機説をとなえた。

一遍は時宗を開き,布教の方法として上右図のような踊り念仏を取り入れ,
    全国を歩きまわって布教した。

第二は,禅宗の系統である。栄西は宋にわたって禅宗を学び,臨済宗を開いた。
    座禅というきびしい修行を通して自分で悟りを開くことを重視したが,
    これは武士の気風によく合ったため,武士の間に広がり,幕府の保護を受けた。

    道元は,ただひたすら座禅に徹せよと説き,山中にこもって曹洞宗を開いた。

第三は,題目(南無妙法蓮華経)の系統である。
    日蓮は日蓮宗を開き,法華経こそ仏教の根本であると説き,
    他宗をきびしく批判した。


 文化





鎌倉時代には,武士がはなばなしく活躍し,民衆も力をつけ,
貴族を中心にした伝統文化のうえに,
武士や民衆の素朴で力強い文化が発達した。
また,宋の文化も取り入れられた。

この時代の代表的な彫刻は金剛力士像で,運慶らの作である。
写実的で力強いのが特徴である。

金剛力士像が置かれている東大寺南大門は鎌倉時代に再建された。
現在の7階建ての建物ほどの高さがある大建築で,中国の影響を受けている。

「 精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり。・・・」で始まるのは
平家物語である。
平氏の繁栄から没落までをえがいた平家物語は,
琵琶法師によって広められた。

随筆としては,吉田兼好の徒然草,鴨長明の方丈記がある。
和歌集としては新古今和歌集がある。

 モンゴル帝国



13世紀の初め,
チンギス・ハンは,モンゴルを統一してモンゴル帝国を建設した。

5代目のフビライ・ハンは,
1271年に首都を大都(現在の北京)におき,国号を元と定めた。
さらに,1279年には宋(南宋)を滅ぼし中国全土を支配下に置いた。

イタリアの商人マルコ・ポーロはフビライに17年間仕え,
帰国後,その体験をもとに「東方見聞録」を著した。
その中で日本のことを「黄金の国ジパング」として紹介した。



 [要点-元寇]
 
(1)
モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの孫にあたるフビライ・ハンは,国号をと改めた。
朝鮮の高麗を屈服させ,日本も従えようとして1274年博多湾に攻め込んだ。

さらに,中国の宋(南宋)を滅ぼし,1281年に再度来襲した。
これを元寇という。

元の集団戦法に苦戦しながらも,暴風雨の助けもあってこれを撃退した。

(2)
御家人は元寇のときに多くの費用を使ったのに,恩賞をもらえず,生活がいっそう苦しくなり,幕府に対して不満を持つようになった。

そこで,幕府は1297年徳政令を出して御家人が手ばなした土地をただでもとの持ち主に返させた。
しかし,効果は一時的なもので,かえって幕府の信用を失わせた。

 元寇



元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,
日本も従うようにと使者を送ってきた。
幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。

1274年,元軍3万が九州の博多湾に上陸し,
集団戦法とすぐれた火器(てつはう)によって日本軍をなやましたすえ,
引き上げた(文永の役)。

さらに,1281年,約14万の大軍で,来襲した。
幕府軍は,博多湾沿いに築いた石塁を利用して戦った。
元の大軍は上陸できないまま,
暴風雨に襲われて大損害を受けて退却した(弘安の役)。

この2度の元の襲来をあわせて元寇という。



元軍が使った火器は上図の中央部に○で囲った「てつはう」である。
「てつはう」は,鉄板で火薬をつつんだもので,
点火して爆発させて,爆発音と煙で敵を混乱させるために
使ったものと思われる(後の鉄砲とは異なる)。

上図では,その大きな音に驚いた馬が前のめりになって,
騎馬武者が馬から落ちそうになっている様子が描かれている。
このような火器とともに日本軍を悩ませたのは,
元の兵士の集団戦法であった。

 農業と商業の発達



鎌倉時代の中頃から,牛馬の利用,鉄製の農具の普及,
草木灰など肥料の普及,二毛作の普及により農業生産が向上した。

この二毛作は表作としては米を作り,
裏作として麦を作るものであったが,
土地がやせるのをふせぐためには肥料を与える必要があった。

また,1つの土地を水田として利用した後,
水を落として畑として使い,
翌年ふたたび水を引き込んで水田にするためには,
灌漑用水の整備・田畑の耕作など手間がかかるようになる。

牛馬の利用,鉄製の農具の普及による農作業の効率化によって,
こうしたことが可能になったと考えられる。

また,桑・漆・茶など,原料や商品として売る商品作物の栽培も始まった。
ただし,綿は朝鮮から綿種が伝わり,
戦国時代,三河地方から栽培が始まった。

 永仁の徳政令と幕府の滅亡



鎌倉時代の中頃から,鎌倉幕府を支える御家人の生活は苦しくなっていった。
その原因の第一は,分割相続である。
当時は兄弟で均等に親の財産(土地)を分けて相続する分割相続が行われていた。

承久の乱など国内の戦いで恩賞として所領を増やすことができる間はよかったが,
戦いがなくなって所領の増加がなくなると,
何代か分割相続をくりかえしていくうちに所領が細分化されてしまい,
収入が減少し生活が苦しくなっていった。

原因の第二は,御家人が貨幣経済にまきこまれていったことである。
鎌倉時代中頃から,農業技術の向上や二毛作の普及により農業生産が上がり,
余剰生産物や手工業品を売買することもさかんになり,
それにともなって貨幣が本格的に流通するようになった。
貨幣を使うようになると,高利貸しから金を借りる者も出てきた。

原因の第三は,元寇である。元の襲来に対して,幕府は御家人を動員して戦った。
当時,このような戦いの時の費用はそれぞれの御家人の負担であった。
国内の戦いに勝ったのであれば,倒した敵の土地を,
てがらに応じて恩賞としてもらうことができた。

しかし,元寇の場合は,戦いに勝っても土地が増えたわけではなかったので,
幕府は御家人に恩賞として土地を与えることができなかった。
当時は出陣のために要する費用はすべて自分持ちであったから,
恩賞はそれを補うという意味もあったのである。
元寇のときの負担は御家人の窮乏を加速させた。

御家人のなかには,高利貸しからの借金が返せず土地を失う者が出てきた。
幕府を支える御家人の窮乏を救うため,
幕府は1297年に永仁の徳政令を出して,御家人の所領の質入れや売却を禁止し,
それまでに売ったり質流れになったりした土地を
もとの持ち主である御家人にただで返させることとした。

しかし,これによっても御家人の窮乏を救うことはできず,
かえって,これまで金を融通していた高利貸しが
金を貸さなくなるなど逆効果になり,
幕府の信用を失わせる結果になった。

 先頭に戻る


 室町
 [要点-室町時代]
 
 年代  おもなできごと
 1333年  鎌倉幕府滅亡
 1334年  後醍醐天皇による建武の新政が始まる
足利尊氏がそむく→後醍醐天皇は吉野に逃れる(南朝)
 1338年  足利尊氏は征夷大将軍になり,室町幕府を開く
南北朝時代の争乱:この時期に守護は守護大名に成長
 1392年  足利義満が南北朝を合一
 1404年  勘合貿易(勘合を使用。中国の明から倭寇の取り締まりを求められた)
 1428年  正長の土一揆(近江の馬借や京都の農民が徳政令を要求)
 1467年  応仁の乱(11年間も京都での争いが続いた→戦国時代の幕開け)
 1485年  山城国一揆(守護大名の畠山氏を追い出して8年間自治を行った)
 1488年  加賀の一向一揆(一向宗の信徒が守護を攻め滅ぼし約100年間自治を行う)

(1)
後醍醐天皇は足利尊氏などの協力を得て,1333年鎌倉幕府滅ぼし, 天皇中心の政治を始めた。
これを建武の新政という。

しかし,足利尊氏が反旗を翻して,後醍醐天皇は吉野に逃れた。
足利尊氏は京都に新しい天皇(北朝)をたて,1338年室町幕府を開いた。
南北朝の争乱の時代に,守護は次第にその国を支配下において守護大名に成長した。

(2)
14世紀の中ごろ,足利義満第3代将軍となり,1392年に南北朝の合一をはかった。
このころ,元にかわってが中国を支配するようになった。
足利義満は中国の求めに応じて,当時中国の沿岸部を荒し回っていた倭寇と呼ばれる海賊を取り締まることを約束した。
その見返りとして勘合貿易(日明貿易)を認められた。
海賊と区別するために勘合という合い札が使われた。

 建武の新政・南北朝の動乱



1333年に鎌倉幕府は滅亡した。
滅亡の原因の第一は,御家人の窮乏と不満である。
所領の分割相続と貨幣経済の進展によって
御家人は次第に窮乏していった。

また,元寇のとき恩賞がほとんどもらえなかったことで
幕府への不満が広がった(御恩と奉公における重大な契約違反)。

幕府は永仁の徳政令を出したが,その効果はうすく,
かえって御家人の不満と不信をまねく結果に終わった。

このような動揺をおさえるため北条氏は専制政治を強化したが,
それはますます御家人の不満をつのらせる結果になった。

滅亡の原因の第二は,
鎌倉中期以降の経済発展によって社会が大きく変動し,
これにともなって,悪党とよばれる新しい武士階層が出てきたことである。
農村経済の発達とそれにともなう商業の発達によって
経済力をたくわえた御家人ではないあらたな武士が成長していった。

彼らの中には,荘園の年貢を奪うなど,
幕府の秩序を乱す者もおり,悪党とよばれた。
悪党はやがて各地に広がっていき,百姓の抵抗運動とともに,
荘園領主や幕府を悩ますようになっていった。

滅亡の原因の第三は,後醍醐天皇である。
幕府のおとろえをみて,後醍醐天皇は,
幕府をたおして天皇中心の政治を取りもどそうと考え,
楠木正成など,悪党とよばれた武士たちによびかけて兵をあげた。

これに対して幕府は,大軍を京都にのぼらせた。
しかし,有力な御家人の足利尊氏 は,
幕府にそむいて,1333年,京都の六波羅探題を攻め落とし,
新田義貞も鎌倉に攻め込んで,鎌倉幕府をほろぼしました。

 

後醍醐天皇は天皇中心の政治をめざした。
この政治のことを建武の新政という。
しかし,新政の大事な役には公家が多くあてられ,
恩賞に不満を持つ武士も少なくなかった。

また,税の軽減は行われず,
戦乱による苦しみを考えずに宮殿の造営を考えるような
政治の失敗もあいついだ。

こうして,しだいに公家中心の新政に不満をもつ者が多くなっていった。
こうした動きを見た足利尊氏は,
新政に対抗して兵をあげ,京都で新しい天皇をたてた。
これを北朝という。

後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れたが,これを南朝という。

足利尊氏は1338年に,北朝によって征夷大将軍に任命されて
室町幕府を開いたが,幕府の支配力は弱く,
このあと約60年にわたって南北朝の動乱の時代が続くことになる。

この時代,相続をめぐるそれぞれの武士一族内部の争いが激しくなっていた。
一方が北朝方につくと,他方が南朝方について戦うという形で,
戦乱を拡大させた。
また,幕府内部も2つに分かれて武力で争い,内乱ははてるともなく続いた。
南北朝の動乱のなかで足利尊氏は,
味方になってもらいたい守護に荘園の年貢の半分を徴収する権限を与えた。
これをきっかけに,守護は国内の武士を家来にしていき,
その国全体を支配する守護大名に成長していった。

14世紀末になって,ようやく各地での争いも少なくなり,
1392年,三代将軍足利義満が,南北朝を合一させ,
約60年続いた南北朝の争乱は終わった。

 室町幕府の組織



管領は将軍を補佐する職で,
侍所(軍事・警察・裁判)や政所(財政)などを統括し,
諸国の守護に将軍の命令を伝達した。

管領には有力な守護大名の細川,斯波,畠山が交代で任命された。
鎌倉府は,足利尊氏が,幕府の基盤であった関東を重視して,
その子基氏に開かせたもので,東国の支配を任せた。

三代将軍足利義満は,
京都の室町に花の御所とよばれる大邸宅を建てて政治を行った。
足利氏の幕府を室町幕府とよぶのはこの室町という地名に由来している。

 勘合貿易
                                  
                                   勘合札
 

南北朝の動乱で幕府の支配力が弱くなっていた時期,
倭寇の活動がさかんになった。
倭寇とは,壱岐・対馬・肥前松浦の土豪・商人・漁民を中心に
朝鮮人も加わった武装商人団で,
ふだんは,中国や朝鮮の沿岸部で貿易を行い,
貿易が認められないときは海賊となって暴れ回り,略奪を行った。

このころ(1368年)中国では漢民族が元を倒して明を建国した。
明は倭寇のとりしまりを日本に求めてきたが,
日本国内は南北朝動乱の末期で,これに対応できなかった。

その後,1392年になって三代将軍足利義満は南北朝の合一を達成し,
ようやく国内が統一された。
義満は,倭寇のとりしまりを約束し,
さらに日本国王として明の皇帝に従うという形式をとって,
1404年に勘合貿易を始めた 。

義満が勘合貿易をおこなったのは,
その利益が非常に大きかったためで,
財政基礎の弱い室町幕府にとっては魅力的なものであった。
貿易船には,倭寇と区別するために勘合という合い札をもたせた。

 朝鮮・琉球・蝦夷地



朝鮮半島では倭寇を撃退して名声をあげた李成桂が
高麗を倒して朝鮮(朝鮮国)を建国した。
朝鮮語を書き表すハングルという文字がつくられた。

沖縄では,15世紀はじめにが琉球王国を建て
首都の首里に首里城を築き,
明・日本・朝鮮・東南アジア各地に進出して
中継貿易を行った。

蝦夷地(北海道)では,
アイヌ民族が古くから狩猟・漁業や交易を行っていたが,
本州の和人の進出に圧迫され,やがて大きな反乱をおこした。

 商工業の発達



室町時代,商業もさかんになり,
交通の要地では問丸(問)(港の運送業・倉庫業者),
馬借(馬の背に荷物を積んで荷物を運ぶ者),
車借(馬や牛に荷車をひかせる者)などの運送業者が活躍した。

商工業がさかんになり,
また勘合貿易で大量の銅銭(明銭)が輸入されたことにより,
貨幣が一般に流通するようになった。
(例えば,農民が米などを値段が高いときに市で売って貨幣にかえ,
荘園の年貢を貨幣で支払うことも多くなった) 

これにともなって,金貸し業もさかんになり,
京都や奈良では,土倉とよばれた質屋のほか,
酒屋や寺院も金貸しを営んだ。

商人や手工業者は,同業者ごとに座とよばれる団体を作り,
公家や寺社に営業税を納めるかわりに,
営業を独占する権利を認めてもらった。
たとえば,定期市(室町時代には月に6回開かれるようになった)は,
交通の要地にあって人が多く集まる寺社の門前で開かれることが多かったが,
その寺社の認める座の商人のみが営業を行うことが許された。

京都で自治組織をつくった裕福な商工業者を町衆という。

 農業の発達
 


鎌倉時代後期から室町時代にかけて,
肥料の普及,水車を使ったかんがい,
牛馬を使った耕作などによって,
農業の生産性が向上した。

また,麻や桑,藍,茶の栽培とともに,
16世紀(室町末期~戦国時代)には
綿などの商品作物の栽培も始まった。

手工業では,京都の西陣や博多の絹織物,
刀や農具をつくる鍛冶・鋳物業がさかんになった。

 農村の自治:惣



室町時代に,
惣とよばれる自治組織をもつ新しいタイプの村が生まれてきた。
鎌倉時代後期から室町時代にかけて,
肥料の普及,水車を使ったかんがい,
牛馬を使った耕作などによって,農業の生産性が向上したが,

ここでまず注目すべきは,肥料である。
肥料としては草木を焼いて灰にしたものなどを使ったが,
そのための多量の草木は,村の共有地からとってきた。
「とってくる」といっても,
各人が好き勝手に刈り取ってしまえば,
資源(草木)はたちまちに枯渇することになる。

そこで,村の有力者が寄合を開いて,
例えば「1人につきこれだけ」といったようなルールを定め,
「違反した場合は罰金として100文を取る」
といった罰則を定めた。

農業用水の管理についても同じようなことがいえる。
川などから水を引くには,長い用水路が必要であり,
1人で作れるものではない。
村人が共同で土木作業を行って,
用水路をつくり,水を共同して使った。
水が豊富にあれば争いもおきないが,
例えば,日照りで水が十分でないときは,
各自の勝手にさせてしまえば,
水源に一番近い者が水を独り占めすることになってしまう。

寄合で,水の配分のルールを定め,違反者は厳しく罰した。
さらに,惣による村人の団結を強めたのは,
南北朝時代の戦乱や応仁の乱などであった。

この時代の軍勢は,兵糧米を現地で調達するのがふつうで,
農村から米などを略奪しながら進んだ。
こうした略奪から村を守るために農民自身が武装し,
村のまわりに堀を作ったりして,対抗した。

 [要点-民衆の成長]
 
農村ではという自治組織が発達した。
商工業者はという同業者の組合を作った。
土倉と呼ばれた質屋や酒屋が金貸し業を営んだ。
運送業も発達し,港町には,倉庫をかまえたが,陸上では馬借と呼ばれる運送業者が活躍した。

1428年近江の馬借や京都の農民が京都に入り,幕府に徳政令を出すことを要求して寺院や土倉をおそった。
この事件を正長の土一揆という。
 土一揆



室町時代,農村では惣とよばれる自治組織が発達し,
団結を強めた農民は荘園領主に対抗するまでに力をつけていた。
不法をはたらく荘官をやめさせるよう荘園領主に要求したり,
不作のときには年貢をまけるように要求し,
認められないときには,全員が耕作をやめて逃げるなど,
実力行使によって要求を認めさせたりした。

このような農民の力を,衝撃的な形で見せつけたのが,
1428年の正長の土一揆であった。
8月に,まず近江の運送業者の馬借が徳政を要求して立ち上がり,
これに刺激されて,京都近郊の惣村でも徳政を幕府に要求して一揆を起こし,
酒屋や土倉などの金貸しをおそって借金の証文を焼き捨てるなどした。

このような農民の一揆を土一揆という。
農民が集団でこのような暴動を起こしたのは,初めてのことであった。
この後,徳政を要求する土一揆が,
京都やその周辺でひんぱんに起こるようになり,
幕府もこれにおされて徳政令を乱発するようになった。

この時代の土一揆は,
借りた金を強引に力づくで踏み倒そうというものであり,
法と秩序が確立している社会では,許されない行為である。
それが通用してしまうのは,結局,幕府の力が弱く,
きちっとした体制ができていなかったためであった。



 [要点-応仁の乱と戦国大名]
 
1467年に起こった応仁の乱11年間続き約100年間続く戦国時代の幕開けとなった。

1485年山城国一揆がおこった。
1488年には加賀の一向一揆がおこり,守護を攻め滅ぼして約100年間自治を続けた。

守護大名の多くが下剋上によって家臣にたおされ戦国大名がうまれた。
戦国大名は領国統治のために分国法という法律を制定した。

 応仁の乱・国一揆・一向一揆



室町幕府は,三代将軍足利義満ののち,しだいに勢力がおとろえていった。
1467年,八代将軍足利義政の後継ぎ争いと,
守護大名どうしの対立から,応仁の乱が起こった。

戦乱は多くの守護大名をまきこんで11年も続いた。
京都は焼け野原になり,幕府の権威はほとんどなくなってしまった。
京都での戦火がおさまった後,
各地の守護大名が領地拡大のために戦ったり,
家臣に倒されたりする下剋上がおこるなど,
戦乱は全国に広がり,約100年間の戦国時代が始まった。

応仁の乱後の1485年,山城(京都府の一部)南部の村は,
地侍を中心にまとまりを強め,
両派に分かれて争っていた守護大名の畠山氏の両軍勢に対して
国外退去を要求した。

そして,村々の代表者を選び,おきてを定め,
犯罪のとりしまりを行うなど,自治による政治を8年間続けた。
この一揆を,山城国一揆という。

近畿,北陸,東海地方では応仁の乱の頃から一向宗が急速に広がり,
信仰で固く結ばれた地侍と農民は一揆を起こして荘園領主や
守護大名に対抗するようになった。

なかでも加賀では,
1488年,約20万人といわれる一揆軍が守護大名を攻め滅ぼし,
以降100年間「百姓の持ちたる国」として自治をつづけた。
これを一向一揆という。

 戦国時代



応仁の乱以降,実力のある者が力をのばして
上の身分の者にうちかつ下剋上の風潮が広がって,
守護大名の地位を奪って実権を握る戦国大名が,
各地に登場した。

戦国大名は,領国支配のための分国法という独自の法律を作った。
また,武士や商工業者を集めて城下町をつくった。

 [要点-室町時代の文化]
 
(1)
室町時代の文化の特色は,公家と武家の文化がとけあったことと,中国から伝わった禅宗の影響を受けていることである。

足利義満は京都の北山に金閣を建て,足利義政は応仁の乱後,東山に銀閣を建てた。
義政の時代の文化を東山文化という。
銀閣は書院造という建築様式に特色がある。

(2)
雪舟水墨画を,また,観阿弥・世阿弥を大成した。
能のあいまに演じられたものに狂言がある。

民衆の間でも「浦島太郎」のような御伽草子と呼ばれる絵本などが作られた。
和歌から生まれた連歌は,公家の間でも村の寄り合いでも盛んに行われた。

 室町時代の文化-北山文化と東山文化



三代将軍の足利義満が京都の北山に建てた別荘で,
金箔を用いた豪華絢爛な寝殿造になっている建築物は金閣である。
義満の時代の文化を北山文化という。

応仁の乱後,八代将軍の足利義政は京都の東山に
東山山荘ともよばれる銀閣を建て風流な生活を楽しんだ。
銀閣に見られる書院造は,
住宅を障子などで間仕切りして数室にわけ,
畳を敷き,明障子や床の間などをもっているところに特徴がある。

書院造は,今日の住居のもとになっているといわれる。
この義政の時代の,公家と武家の文化がとけあい,
また,禅宗の影響も受けた簡素で深いおもむきのある文化を
東山文化という。

 能・水墨画など



平安時代から神社の祭りなどの時,
農民によって行われてきた田楽や猿楽は,
足利義満の保護を受けた観阿弥と世阿弥によって
能として大成された。

狂言は能の合間に演じられた。



室町時代,民衆の地位が向上し,民衆が楽しむ文化が生まれた。
「浦島太郎」や「一寸法師」や「ものぐさ太郎」などの
お伽草子とよばれる絵本がつくられ,人々を楽しませた。

また,和歌の上の句と下の句を,
次々に別の人がよみあう連歌も流行した。



和紙に墨一色の濃淡で描く画を水墨画という。
禅僧の雪舟が大成した。

 先頭に戻る


 安土桃山
 [要点-安土桃山時代]
 
 西暦  おもなできごと
 1543年  ポルトガル人が鹿児島県の種子島に流れ着き鉄砲を伝える
 1549年  イエズス会フランシスコ・ザビエルキリスト教を伝える
 1560年  桶狭間の戦い(織田信長が奇襲によって今川義元を破る)
この頃,南蛮貿易がさかんになる
 1573年  織田信長が足利義昭を京都から追放して室町幕府滅亡させる
 1575年  長篠の戦い(信長,鉄砲隊を使って武田氏を破る)
信長,安土城を築き,城下では楽市・楽座を実施
 1582年  本能寺の変がおこり,信長は家臣の明智光秀に殺される
 1582年  豊臣秀吉,太閤検地を実施し収穫高は石高で表す
 1588年  刀狩令を出して兵農分離をすすめる
 1590年  豊臣秀吉が全国を統一する
~この頃から桃山文化が栄える~
 1592年  秀吉,朝鮮に出兵→李舜臣のひきいる水軍にやぶれ苦戦

(1)
1543年ポルトガル人をのせた船が,台風にあって現在の鹿児島県の種子島に流れ着き,鉄砲が伝えられた。
これ以降, ポルトガル人やスペイン人との南蛮貿易が盛んになった。

(2)
1549年イエズス会の指導者であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して日本にキリスト教を伝えた。

(3)
織田信長今川義元桶狭間の戦いでやぶり,1573年には室町幕府をほろぼした。
さらに,長篠の戦いで,鉄砲を使った集団戦法で武田氏をやぶった。

琵琶湖のほとりに安土城を築き,城下に楽市・楽座令を出して誰でも自由に商工業ができるようにし,さらに各地の関所を廃止した。

(4)
信長のあとをついだ豊臣秀吉大阪城を作り,1590年に全国を統一した。
秀吉は,太閤検地を行い,収穫高は石高で示させた。
これによって荘園は完全に消滅した。

また,刀狩令を出して兵農分離を進めた。
秀吉は最初キリスト教を保護したが,のちにこれを禁止した。
1592年朝鮮に出兵したが,李舜臣のひきいる水軍にやぶれ,苦戦した。

 鉄砲の伝来



地理上の発見のあと,ポルトガルやスペインの船が,
日本の近くにも来るようになり,
1543年に種子島に流れ着いたポルトガル人が,
日本に初めて鉄砲を伝えた。

このとき伝えられた鉄砲は,まもなく堺や国友などで,
刀鍛冶職人によってつくられるようになり,
戦国大名の間に広まった。

鉄砲をもっとも有効に活用したのは織田信長である。
長篠の戦いで足軽鉄砲隊を使った集団戦法で,
当時最強といわれた武田の騎馬隊を打ち破ったのは
あまりにも有名である。

 キリスト教の伝来



ルターらの宗教改革の刺激を受けて,
カトリック教会側でも,勢力を回復するために,
フランシスコ・ザビエルらがイエズス会をつくり,
海外布教などに力を入れた。

キリスト教(カトリック)は,
1549年,フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされた。
ザビエルは鹿児島に上陸した後,山口,京都,
豊後府内(大分市)などで布教して,2年あまりで去ったが,
その後も宣教師がやって来て,教会などを建て布教を行った。

キリスト教の信者たちはキリシタンとよばれ,
人々の間に信仰が広まった。
西日本の大名のなかには,
南蛮貿易の利益を得るために,キリスト教を保護したり,
自らも洗礼を受けてキリシタン大名となる者もいた。

九州の大村,大友,有馬の3大名は,
1582年ローマ教皇のもとへ4人の少年使節を送った。

織田信長は仏教勢力に対抗するためにキリスト教を保護した。
信長のあとをついだ豊臣秀吉は,最初キリスト教を保護したが,
のちに国内統一の妨げになると考えて,
キリスト教を禁止した。

17世紀初めには37万人の信者がいたといわれている。
1543年のポルトガル人の漂着以降,
南蛮人とよばれたポルトガル人やスペイン人は
毎年のように九州の諸港に来航して貿易を行った。
これを南蛮貿易という。

南蛮人は鉄砲・火薬や中国の生糸などをもたらし,
日本からおもに銀を持ち帰って,大きな利益をあげた。

 織田信長-桶狭間の戦い・長篠の戦いなど



戦国大名の中で全国統一の願望をいだき,
実行に移したのは織田信長であった。

統一をなしとげるために数多くの合戦を戦ったが,
その中で,試験によく出題されるのは,
桶狭間の戦いと長篠の戦いである。

尾張の小さな戦国大名であった織田信長は,
2万5千という大軍で侵入してきた今川氏を,
そのわずか10分の1の兵力で奇襲して,
今川義元を討ち取り今川軍を破った。
これが桶狭間の戦いである。

その後,足利義昭を援助して京都にのぼって,
将軍職につけたが,1573年には義昭を追放して,
室町幕府をほろぼした。

1575年,長篠の戦いで武田氏を打ち破った。
下図の左側の鉄砲を使用しているのが織田方である。
信長は川岸に柵を設けさせ,
大量の鉄砲を使って一斉射撃をあびせかけて,
当時最強といわれた武田の騎馬軍団を壊滅させた。

1582年,信長は,家臣の明智光秀にそむかれて,
本能寺で自害した。



桶狭間の戦いによって今川氏の勢力がおとろえた後,
徳川家康は今川方から独立して織田信長と同盟を結び,
以後,織田信長が本能寺の変で倒れるまで
忠実に信長に従ってともに戦った。

信長は堺の鉄砲と経済力に目をつけ,
これを支配下に置こうとしたため,
堺の商人たちは自治を守るために戦ったが,
信長に屈服した。

信長は宗教勢力に対しても,
敵対する勢力には厳しい態度で臨んだ。
当時の大寺院・寺社は強大な宗教的権威と
経済力を背景に武装しており,
それ自体が強大な政治勢力であった。
信長は敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにした。
信長にとって最大の敵となったのは,
石山本願寺を頂点にした一向一揆勢力であった。

信長は,1573年には伊勢長島の一向一揆をほろぼし,
翌年には越前の一向一揆を平定し,
ついに1580年には石山の本願寺を屈服させることに成功した。

なお,当時,キリスト教に対しては,
仏教勢力に対抗させる意図もあって,これを保護した。

 安土城・楽市楽座



織田信長は,長篠の戦いの翌年,
琵琶湖のほとりに5層の天守閣をもつ
壮大な安土城を築いた。

信長は城下に楽市・楽座令を出して,
だれでも自由に商工業ができるようにした。

室町時代以降,同業者の組合である座が増えたが,
商人の座は,寺社や荘園領主に営業税を納める代わりに
一定地域内の市場における独占的販売権を認められていた。

楽市・楽座の政策は,このような座の特権を廃止して
誰でも自由に商売ができるようにし,
さらに営業税を免除することで,
城下に商人をよびよせ城下町の経済的発展を
めざしたものであった。

また,当時,寺社や荘園領主が交通の要所に関所を設け,
通行税を徴収していたが,
信長はこれを廃止して,商工業の発展を図った。

 豊臣秀吉-天下統一



天下統一を目前にした織田信長は,
1582年,家臣の明智光秀にそむかれて本能寺で自殺した。

豊臣秀吉は,いちはやく光秀を倒し,
信長の後継者の地位についた。

秀吉は,大阪に壮大な大阪城を築いて本拠地とし,
朝廷から関白に任命された。

秀吉は天皇から日本全国の支配権をゆだねられたとして,
惣無事(全国の平和)をよびかけ,
たがいに争っていた戦国大名に停戦を命じ,
その領国の確定を秀吉の決定にまかせることを強制した。

この命令に従わなかった九州の島津氏などをせめて降伏させ,
1590年には関東の北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた。

 太閤検地と刀狩
 
 

豊臣秀吉は,全国の田畑の面積,土地のよしあし,
耕作者を調べさせ,村ごとに検地帳をつくらせた。
これを太閤検地という。

収穫高は,全国どこでも同じ大きさの京ますではかり,
石高で表すようにした。
検地帳に記された農民は,その田畑を耕作する権利を認められたかわりに,
定められた年貢を領主である武士に納めることになった。
これによって年貢収納が確実になり,
荘園領主などがもっていた田畑に関する権利はすべて否定され,
荘園は消滅することになった。

さらに,刀狩令を出して武士以外の者から
刀・弓・やり・鉄砲などの武器を取り上げた。

刀狩と検地によって,農民の一揆などの抵抗を防ぎ
武士と農民を区別する兵農分離をおしすすめた。

 対外政策



全国統一を果たした秀吉は,中国の明の征服をめざして,
朝鮮に大軍を送った。
これを朝鮮侵略という。

初めは優勢であったが,民衆の抵抗を受けて次第に苦戦し,
李舜臣の率いる水軍に大敗し,
秀吉の病死により兵を引きあげざるをえなくなった。

朝鮮侵略のときに朝鮮から連れてこられた技術者によって
有田焼などの陶磁器が作られるようになった。

豊臣秀吉は,キリスト教が全国統一のさまたげになると考え,
宣教師の追放令を出した。
しかし,南蛮貿易は制限せず,
外国の商船の来航をうながしたので,
キリスト教の禁止は徹底しなかった。



 [要点-安土桃山文化]
 
安土桃山時代,豪華・雄大で活気にあふれた桃山文化が生み出された。

狩野永徳ふすま絵をえがき,千利休茶の湯を大成し,出雲の阿国歌舞伎を始めた。
また,朝鮮侵略の際に連れてこられた技術者によって,すぐれた陶磁器が作られるようになった。

 桃山文化



全国を統一する政権が出現した桃山時代は,
古い社会のしくみがこわされ,社会には活気がみなぎった。

この時代の桃山文化は,
大名や大商人たちの権力や富を背景にした
豪華で壮大な文化で,
南蛮文化の影響も受けている。



桃山文化を代表するのは,支配者の権威を示す壮大な城で,
城の最上部には天守閣がつくられるようになった。

城のふすまや屏風には,はなやかな絵が描かれるようになった。
屏風絵やふすま絵で有名なのは狩野永徳である。

茶の湯は,大名や大商人たちの間で流行し,
秀吉に仕えた千利休は,質素なわび茶の作法を完成させた。

17世紀はじめに出雲の阿国が始めた踊りをかぶき踊りという。
「かぶく」は「傾く(かぶく)」という語から生まれた言葉で,
目をおどろかす異様な姿で変わったことをする者を
「かぶき者」といった。

 先頭に戻る


 江戸
 [要点-江戸時代]
 
 年代  おもなできごと
 1600  関ヶ原の戦い徳川家康石田三成らの豊臣方を破る
 1603  徳川家康,征夷大将軍になり,江戸幕府を開く
 1615  大阪の陣:豊臣家の滅亡
 1615  武家諸法度の制定:大名が守るべき規則を定める
 1635  参勤交代を定める:大名は1年おきに江戸と領地を往復。徳川家光のとき
 1637  島原・天草一揆:キリスト教農民の一揆。絵踏や宗門改めを行う。
 1639  鎖国の完成:ポルトガル人の来航を禁止。オランダと中国のみ,長崎の出島
 1649  慶安の御触書:農民の生活を統制。五人組の制度で年貢納入の共同責任。
千歯こき,備中ぐわが普及,新田開発や干拓(有明海,児島湾)→農業の発達
商業の発達,都市の発達:大名が蔵屋敷を置いた大阪は「天下の台所」。五街道
 1680  徳川綱吉,第5代将軍:財政不足→貨幣の質を落とす。
儒学の中の朱子学を奨励
元禄文化:京都や大阪などの上方を中心に栄える。
菱川師宣(浮世絵)
近松門左衛門(人形浄瑠璃),井原西鶴(浮世草子),松尾芭蕉(俳諧)
 1716  徳川吉宗,第8代将軍に。享保の改革。公事方御定書(裁判の基準),目安箱
 1772  田沼意次,老中になる。:株仲間の奨励,わいろの横行
 1774  前野良沢,杉田玄白が「解体新書」を著す。蘭学
 1782  天明のききん→農村では百姓一揆,都市では打ちこわしが頻発した。
 1787  松平定信が老中になり,寛政の改革
 1798  本居宣長「古事記伝」を著し,国学を大成。このころ,寺子屋が普及。
化政文化:江戸を中心にした文化。狂歌や川柳,浮世→錦絵
 1825  異国船打払令→蘭学者の渡辺崋山と高野長英が批判→処罰される
 1833  天保のききん
 1837  大塩平八郎の乱
 1841  水野忠邦の天保の改革:異国船打払令の緩和,株仲間の解散

(1)
徳川家康は豊臣秀吉の死後,1600年に豊臣氏をもりたてようとする石田三成らを,関ヶ原の戦いでやぶり,1603年に征夷大将軍に任じられて,江戸幕府を開いた。

1万石以上の領地を持つ武士を大名といい,その領地と支配の仕組みをといった。
1万石未満の将軍の家臣を旗本御家人と呼んだ。

(2)
幕府は,大名を,将軍の一族である親藩,関ヶ原の戦いの前からの家臣である譜代大名,関ヶ原の戦以後家臣になった外様大名に分けた。

重要な地方には親藩や譜代大名を配置し,外様大名は遠い地域に置いた。
1615年,幕府は武家諸法度を定め,さらに第3代将軍徳川家光のときに参勤交代を制度化した。

(3)
士農工商の身分制度を徹底させ,特に人口の85%をしめる農民については, 1649年に「早起きし,朝は草を刈り,昼は田畑を耕作し・・・」という慶安の御触書を出して日常生活を細かく統制した。

また, 年貢納入や犯罪防止などについて共同の責任を負わせる五人組の制度をつくった。

 江戸幕府の成立



豊臣秀吉の死後,徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いで
石田三成を中心とする豊臣方を破り,実権を握った。

1603年には征夷大将軍に任じられ,江戸幕府を開いた。
さらに,1615年には,豊臣氏を大阪の陣で滅ぼした。

 江戸幕府の組織



将軍のもとにあって幕政を統括したのは複数人からなる老中で,
重要事項はその合議で決められた。
老中の下に,町奉行(江戸の町の政治や警察),
大目付(大名の監視)が置かれた。

また,京都には,朝廷と西国の大名の監視を行う
京都所司代が置かれた。

 貨幣



幕府の直轄領を幕領という。
幕府は全国の4分の1の領地をもち,
大阪・京都・長崎などの重要な都市や,
佐渡の金山など国内の主な鉱山を直接に支配し,
貨幣の鋳造権も独占していたため,
他の大名とはけた違いの経済力をもっていた。

このような強力な経済力と軍事力を背景に,
徹底した大名統制を行い,
こののち260年あまりも続く平和な時代をつくりあげた。

 親藩・譜代・外様の配置



幕府と藩の力で全国の土地と人民を支配する政治の制度を
幕藩体制という。

大名とは1万石以上の領地を与えられた武士である。
また,大名の支配する領地とその政治組織を藩という。

江戸幕府は大名を,徳川氏の親せきである親藩,
関ヶ原の戦いより前から徳川氏の家来だった譜代大名,
関ヶ原の戦い以後に徳川氏の家来になった外様大名の3つに分けた。

江戸幕府を永続させるため,
全国の領地の4分の1をしめる圧倒的な実力を背景にして,
徹底した大名統制を行った。

大名の領地がえを行って,
関東,中部,近畿などの重要な所には親藩や譜代大名を配置し,
有力な外様大名は九州,四国,東北など江戸から遠いところに配置し,
親藩や譜代大名をその間に配置して外様を監視させた。

将軍直属の家臣には,旗本(将軍に直接会うことができる者)と
御家人(将軍に直接会うことができない者)がいた。



 武家諸法度・参勤交代



最初の武家諸法度は二代将軍徳川秀忠のときに出され,
以後,将軍がかわるたびごとに出された。

江戸幕府初期には,
多くの大名が武家諸法度違反などの理由で処罰された。
たとえば,1619年,関ヶ原の合戦で功績があった福島正則は,
武家諸法度で禁じられていた城の修築を無断で行ったという理由で
お家取りつぶしの処罰を受けている。

これは,昔からの功労者であった者も
法度に背けば容赦しないという武断政治の姿勢を示したものである。

三代将軍徳川家光は参勤交代の制度を定め,
大名は江戸に妻子を人質として置き,
1年おきに領地と江戸を往復することを義務づけた。
往復のための費用や江戸での生活のための費用は大きな負担となり,
このために各藩の財政は非常に苦しくなり,
大名の経済力が弱められた。

 士農工商の身分制度
 




豊臣秀吉は,太閤検地と刀狩によって兵農分離をおこない,
武士と百姓を区別して身分制を確立させた。

江戸幕府もこれをひきついで,士農工商の身分制を徹底させた。
武士は全人口の7%をしめ,名字・帯刀などの特権を認められた。
町人(商人や職人)は全人口の約5%をしめた。

人口の約85%をしめたのは百姓である。
百姓のうち,土地をもち年貢納入の義務を負っていた者を
本百姓といい,土地をもたない者を水のみ百姓といった。
有力な本百姓は庄屋(名主)・組頭・百姓代などの村役人になった。

士農工商の下に,「えた」や「ひにん」という身分を設けた。
これは百姓などに自分たちよりさらに身分の低い者がいることを意識させ,
さらに,身分間で反目させて不満をそらすためであったと考えられる。

 農民統制





武士の生活は百姓が納める年貢でささえられていた。
幕府や藩は,四公六民(収穫高の4割が年貢で,6割が百姓の手元に残る)や
五公五民という重い年貢を取り立て,財政をまかなった。

百姓から年貢を安定して取るために,
土地の売買を禁止したり,
米以外の作物の栽培を制限したりするなど,
さまざまな規制をくわえた。

1649年に慶安の御触書を出して,
「朝には早起きして草を刈り,昼は田畑の耕作をし,・・・」
「酒や茶を買って飲んではならない」など
百姓の生活のあらゆる面にわたって細かく規制した。

また,五人組の制度をつくり,
五戸前後を一組として年貢の納入や犯罪の防止などについて
百姓に連帯責任を負わせた。

 朱印船貿易と日本町





徳川家康は,最初,大名や大商人に
海外渡航を許可する朱印状をあたえて貿易をすすめた。
これを朱印船貿易という。

西国の大名や京都,堺,長崎などの商人は,
朱印船を派遣して貿易を行った。
その結果,東南アジア各地に日本人が進出し,
日本町がつくられた。
タイのアユタヤでこの町のかしらとなった山田長政が有名である。

徳川家康は,最初は海外貿易の利益のために,
キリスト教については黙認していた。
しかし,この間に全国にキリスト教の信者が増加していった。
家康は三河の時代に一向一揆に苦しめられた経験から
キリスト教徒が増えて大きな勢力になることを恐れ,
キリスト教を禁止し,宣教師を海外追放にした。

また,西国の大名が貿易によって経済力を増すのを恐れ,
1616年にはヨーロッパ船の来航長崎と平戸に限定して貿易を独占した。

 [要点-キリスト教の禁圧と鎖国]
 
(1)
徳川家康は朱印船貿易をすすめ,東南アジア各地に日本町がつくられた。

1637年,第3代将軍徳川家光のとき,島原・天草地方のキリスト教農民が島原・天草一揆をおこした。
幕府はキリスト教の禁止を徹底して行い,絵踏を実施した。
さらに,幕府は1639年にポルトガル人の来航を禁止し,ついでオランダ人を長崎の出島に集め,ここだけで貿易を許した。

これを鎖国という。このころ中国では明が滅んでが建国された。

(2)
将軍がかわるたびごとに朝鮮通信使が訪れた。

琉球王国は,17世紀のはじめに薩摩藩によって征服された。

また,蝦夷地は松前藩による圧迫を受けたアイヌ民族が,その族長のシャクシャインの指揮のもと反乱をおこした。

 島原・天草一揆と鎖国



1637年,島原(長崎県)・天草(熊本県)地方のキリスト教徒の
農民約3万7千人が,無理な年貢の取り立てと
キリスト教徒へのきびしい取り締まりに反対して
島原・天草一揆を起こした(指導者は天草四郎)。
幕府は12万の大軍を送ってようやく一揆をしずめた。

島原・天草一揆の後,
幕府は,キリスト教徒の発見のために絵踏を行い,
役人の前でイエスの像などを踏ませてキリスト教徒でないことを証明させた。

また,幕府は,人々を宗門改帳に記して
仏教徒であることを寺院に保証させた。

当時,海外進出を行っていたヨーロッパ国の中で,
ポルトガルとスペインの旧教(カトリック)国は,
貿易とともにキリスト教の布教を行っていた。
すでに1624年にスペイン船の来航(らいこう)を禁止していたが,
島原・天草一揆後の1639年,
三代将軍徳川家光はポルトガル人の来航を禁止した。

当時日本と貿易を行っていたオランダは,
キリスト教の新教(プロテスタント)の国で,
布教は行わず,貿易のみを行っていたので,
引き続き貿易を認めることとしたが,
貿易を行う場所を長崎の出島に限定した。
また,清の商人も長崎でのみ貿易を認められた。
こうして鎖国が完成した。

鎖国を行った理由の一つはキリスト教が広がるのを防ぐためであった。
もう一つの理由は,西国の大名が貿易によって経済力を増すのを恐れ,
貿易を行う場所を幕領である長崎に限定して,貿易を独占するためであった。

 朝鮮・琉球・蝦夷地



豊臣秀吉の朝鮮侵略の後,
朝鮮との国交はとだえていたが,
対馬藩のなかだちで,
徳川家康のときに国交が回復した。

その後,将軍が代わるごとに
朝鮮から通信使という使節が訪れた。

対馬藩は朝鮮との国交の実務を担当するかわりに,
朝鮮との貿易を許可されて,
銀や銅を輸出し,朝鮮にんじん,
木綿,絹などを輸入した。




17世紀の初め,琉球は薩摩藩に征服された。
薩摩藩は,年貢米を取り立てるなど,
きびしく監督をしたり,中国や東アジアとの貿易を,
幕府と薩摩藩の管理の下でつづけさせたりして利益を得た。

蝦夷地にはアイヌ人が住んでいたが,
蝦夷地南部に領地をもつ松前藩は,
アイヌ人との取引を独占し暴利をむさぼっていた。

これに対して,アイヌ人は17世紀の後半
シャクシャインを指導者として戦いを起こした。
松前藩は幕府に助けを求めて,ようやくこれをしずめた。

 [要点-産業・都市の発達]
 
(1)
江戸時代初期,新田開発がさかんに行われ,九州の有明海や岡山の児島湾では干拓が行われた。
その結果,秀吉の時代から100年の間に田畑面積は約2倍になった。

農具も改良され,土地を深く耕すことのできる備中ぐわ,脱穀のための千歯こき,米の選別のための千石どおしが発明された。

(2)
当時,江戸は「将軍のおひざもと」と呼ばれ,ここを中心として東海道や中山道などの五街道が定められた。
大阪は「天下の台所」と呼ばれ,年貢米の保管のために各大名が置いた蔵屋敷があった。
また,京都西陣織清水焼で有名であった。
江戸,大阪,京都をあわせて三都という。

 農業の発達

 

幕府や藩は土地の開墾に力を注いだ。
大規模な用水路をつくって水を引き,
荒れ地を開墾して田畑の面積を広げ,
海や沼地を干拓したりして新田開発を行った。

その結果,田畑の面積は安土・桃山時代のころから
100年の間に約2倍になった。

大規模な用水路建設を可能にしたのは,
戦国時代から近世にかけての築城で使われた
測量・掘削などの技術革新であった。

 農具



江戸時代になって,備中ぐわ(土を深く耕すことを可能にした),
千歯こき(稲穂からもみをしごいてとる(脱穀)),
千石どおし(米粒をふるいわける),
唐み(風を送りもみがらなどを取り去る)などの農具が発明され,
農業技術が向上した。

 水産業や鉱業の発達



水産業では,網が改良されて大量漁獲が可能になった。
九十九里浜(千葉県)では,
このような網を使った大規模ないわし漁がおこなわれるようになった。

いわしは干鰯という肥料に加工されて,
近畿地方などの綿作地帯に売られた。
干鰯や油かすなどの新しい肥料は金肥(金のかかる肥料)とよばれた。

蝦夷地では,にしん漁やこんぶ漁が発達し,
南西海域では捕鯨やかつお漁がさかんになった。



採掘・排水・精錬などの技術進歩により,
佐渡金山,生野銀山,別子銅山,足尾銅山などが開かれ,
17世紀の初めに,日本は世界でも有数の金銀産出国になった。

17世紀後半になると,金銀の産出量は急減し,
かわって銅の産出量が増加した。

 都市の発達



各地の大名は,大阪に蔵屋敷をおいて
年貢米や特産品を大商人に売りさばかせ,
藩の財政をまかなった。

大阪は,全国の物資の集散地として栄えた商業都市で,
「天下の台所」とよばれた。

京都は西陣織という高級絹織物などの
工芸品の発達した都市であった。
大阪・京都を上方という。

江戸は「将軍のおひざもと」といわれ,
人口は約100万人に達した。
江戸,大阪,京都をあわせて三都とよんだ。

 交通・商業の発達



全国的な陸上交通の整備は豊臣政権にはじまり,
江戸幕府により完成された。

江戸を中心に東海道・中山道・甲州街道・日光街道・
奥州街道の五街道が整備された。



東北・北陸地方の物資を,
太平洋沿岸をまわって江戸に運ぶ航路は東廻り航路で,
日本海沿岸から瀬戸内海をまわって大阪に運ぶ航路を西廻り航路とよんだ。

江戸・大阪間には菱垣廻船,樽廻船とよばれる船が運行され,
菜種油,酒,しょうゆ,木綿などが大阪から江戸へ運ばれた。

③大商人は株仲間という同業者組合をつくり,
幕府の許可を得て営業を独占し,大きな力を持つようになった。
金銀を両替する両替商も増え,
江戸の三井や大阪の鴻池のように有力なものは,
大名の財政にも影響力を持つようになった。

江戸の越後屋呉服店は「現金掛値なし」という
薄利多売の新しい商法で大成功した。

 [要点-元禄文化]
 
(1)
動物愛護の悪法である「生類憐みの令」で有名な第5代将軍徳川綱吉は,金貨の質を悪くして,財政難をきりぬけようとしたが,かえって物価の上昇を招いた。

第6,7代将軍に用いられた新井白石は金貨をもとにもどし,長崎貿易を制限して金銀の海外流出をふせいだ。

(2)
17世紀末から18世紀はじめにかけて上方で栄えた文化を元禄文化という。

文学では,『曽根崎心中』などの人形浄瑠璃の台本を書いた近松門左衛門浮世草子の作者で「日本永代蔵」を書いた井原西鶴俳諧松尾芭蕉が名高い。

絵画では,浮世絵菱川師宣が有名である。

 元禄文化



17世紀末,五代将軍徳川綱吉の時代に,都市が繁栄し,
京都・大阪などの上方を中心にした文化(元禄文化)が発達した。

各地を旅しながら俳諧を芸術の域まで高めたのは
「奥の細道」で名高い松尾芭蕉である。

近松門左衛門は人形浄瑠璃の台本に,
義理と人情の板ばさみになやむ男女の気持ちを書いた。

大阪の町人井原西鶴は,
当時の世相や町人のくらしをありのままに浮世草子という小説に描いた。

歌舞伎では,坂田藤十郎や市川団十郎らの名優が出た。
菱川師宣は浮世絵の版画を始めた。
その代表作は「見返り美人」である。

 徳川綱吉の政治



17世紀後半になると,社会が安定し,
幕府ができたころの武断政治から文治政治へ変わった。

五代将軍徳川綱吉は,
忠義や孝行を重視する儒学の朱子学を奨励し,
湯島に聖堂を建てて孔子をまつり,
政治の安定を図ろうとした。

綱吉は,生類憐れみの令を出し,鳥獣,とくに犬を大切にし,
殺傷した者は重い刑に処した。
綱吉は寺院の建設などに多額の費用をかけ,
また,17世紀後半に佐渡金山などからの金銀の産出量が
急減したこともあって,幕府の財政は苦しくなっていた。

綱吉は貨幣の質を落として財政難を切り抜けようとしたが,
物価の上昇を招く結果になった。

綱吉の後,六・七代将軍につかえた新井白石は貨幣の質を元に戻し,
また,長崎貿易を制限して金銀の海外流失をふせいだ。

 [要点-享保の改革~寛政の改革]
 
(1)
第8代将軍徳川吉宗(よしむね)は享保(きょうほう)の改革を実行し,新田開発や年貢の定率化によって財政の安定を図り,目安箱(めやすばこ)という投書箱を設置し,公事方(くじがた)御定書(おさだめがき)をつくって裁判の基準とした。この改革によって幕府の収入は安定したが,米価は安定せず,江戸ではじめての打ちこわしがおこった。

(2)
18世紀ごろ,農村に貨幣(かへい)経済(けいざい)が広がって小作人が増え,ききんのときには百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)が起こりやすくなった。江戸や大阪などの都市では,打ちこわしが起こった。また,18世紀ごろから,問屋が農民に織機(しょっき)やお金を前貸しして布を織らせる問屋制(とんやせい)家内(かない)工業(こうぎょう)がさかんになり,19世紀ごろには,工場制(こうじょうせい)手工業(しゅこうぎょう)が起こった。

(3)
18世紀後半に老中になった田沼(たぬま)意(おき)次(つぐ)は,商工業者に同業者の株(かぶ)仲間(なかま)をつくることを認め,営業を独占させるかわりに税を納めさせた。しかし,大商人と結びついたためわいろが横行し,政治が乱れた。18世紀後半,天明(てんめい)のききんがおこり,農村では百姓一揆が,都市では打ちこわしが頻発し,老中の田沼意次は失脚した。

(4)
かわって白河(しらかわ)藩主の松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中としてむかえられ,寛政(かんせい)の改革をおこなった。定信は,農民の都市への出かせぎを禁止した。また,旗本や御家人の借金を帳消しにした。さらに,昌(しょう)平坂(へいざか)学問所(がくもんじょ)では朱子学(しゅしがく)以外の学問を禁止した。

 享保の改革



1716年,徳川吉宗が八代将軍になったとき,
幕府は,旗本・御家人に支給する米にも不足していた。

そこで,徳川吉宗は享保(きょうほう)の改革とよばれる次のような改革を実施した。
・武士に質素・倹約をすすめた。
・上げ米の制を定め,参勤交代の負担を軽くすることを条件に,
 1万石について百石の米を各大名に出させた。
・新田開発をすすめた。
・豊作・不作にかかわらず年貢の率を一定にし,年貢の率を五公五民に引き上げた。
 このような改革によって,幕府の収入は増加し,財政はいったん立ち直った。
 さらに,公事方御定書という法令集をつくらせて裁判の基準とした。
 民衆の意見を直接聞くために目安箱を設けた。
 なお,吉宗の時代に江戸で初めての打ちこわしがおこった。

 農村の変化・百姓一揆と打ちこわし



18世紀になると,木綿の原料となる綿,油の原料となる菜種,
染料となるあいや紅花などの商品作物の栽培がさかんになった。

これらの商品作物の栽培には干鰯などの肥料を
購入することが必要であったので,
それまでの自給自足経済がくずれ貨幣経済が
農村にも浸透した。

成功して他の農民の土地を手に入れて地主となる者がいるいっぽうで,
土地を手放して小作人となる農民も多くなり,
貧富の差が大きくなった。

また,このころ,手工業が各地の農村に広がっていった。
最初は,商人が織機や材料を農家に貸し出し
製品にする問屋制家内工業であったが,
のちにたくさんの労働者が分業によって製品をつくる
工場制手工業に変わっていった。




貧しい小作人が増えると,日照り・長雨・
いなごの害などによって不作になると,
大勢の人が飢え死にするききんがおこりやすくなった。

とくに,1783年の浅間山の噴火によって火山灰が降りつもり,
関東から東北地方にかけて深刻なききんに見舞われた
(天明のききん)。

こうしたなかで,農村では年貢の軽減や
不正な代官の交代などを要求する百姓一揆がおこった。
上図は,一揆の参加者が円形に署名した傘連判状である。
円形に署名しているのは,
誰が指導者であるかがわからないようにするためである。

江戸や大阪などの都市では,貧しい人々が,
米の値段をつり上げる大商人をおそう打ちこわしを行った。



 田沼の政治



18世紀後半になると幕府の財政はいきづまりの状態になった。
1772年に老中になった田沼意次は
商人の経済力を利用することによって
幕府の財政を立て直す政策をとった。

すなわち,
①商工業者が株仲間を結ぶことを奨励して,
 これに特権を与えるかわりに税を取り立てた。
 (株仲間を結んだ商人は営業を独占することで
 大きな利益をあげることができた) 
②町人に出資させて印旛沼(千葉県)などの干拓を行い,
 新田を増やそうとした。
③長崎貿易で金銀を輸入するため,
 銅や海産物の輸出を奨励した。
④蝦夷地の開発をこころみた。

しかし,一部の大商人と結びつき,わいろが横行して政治が乱れた。
1783年,天明のききんがおこり,
農村では百姓一揆が,都市では打ちこわしがおこり,
田沼は老中をやめさせられた。

 寛政の改革



田沼意次にかわって1787年に老中になったのは
白河藩の藩主であった松平定信である。

松平定信はつぎのような寛政の改革を行った。
①農民の都市への出かせぎを禁止し,
 江戸などに出てきていた農民を農村に帰した。
②凶作やききんに備えるため,
 農村に倉を設けて米を蓄えさせた(囲米)。
③旗本や御家人の生活難を救うため,
 金融業を営んでいた札差からの借金を帳消しにした。
④昌平坂学問所では,
 朱子学を公認の学問として他の学問を禁止した。
⑤出版物の内容まできびしい統制をくわえた。

しかし,この改革は十分な効果をあげることができず,
きびしい統制や倹約の強要は民衆の反発をうんだ。

 [要点-外国船の出現と天保の改革]
 
(1)
1792年にロシアのラクスマンが根室に,1804年レザノフが長崎に来航して通商を求めたが幕府はこれを拒絶した。
ロシアを警戒した幕府は,近藤重蔵間宮林蔵蝦夷地や樺太の調査を行わせた。
1808年,イギリスの軍艦がオランダ船をとらえるために長崎港に侵入するというフェートン号事件が起こった。
1825年,幕府は異国船打払令を出した。蘭学者の高野長英渡辺崋山はこれを批判して処罰された(蛮社の獄)。

(2)
1830年代に天保のききんがおこり,大阪では,儒学者(陽明学)の大塩平八郎が大塩の乱を起こした。
幕領である大阪で奉行所のもとの役人が反乱を起こしたことは,幕府に大きな衝撃を与えた。
このような中で,1841年,老中の水野忠邦天保の改革を行い,株仲間の解散などを行った。
水野忠邦は,アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知ると,異国船打払令をやめた。

 外国船打払令



18世紀末頃から日本の沿岸にロシア,
イギリス,アメリカの船が現れるようになった。
1792年,ロシアのラクスマンが,
漂流民の大黒屋光太夫を連れて根室に来航し通商を求めたが,
幕府はこれを断わった。

ロシアの接近を警戒した幕府は,間宮林蔵らに命じて,
蝦夷地や樺太を探検させた。

さらに,1808年には,イギリスの軍艦フェートン号が
当時敵国であったオランダ船を追って長崎に侵入する事件が起こった。
その後もイギリス船やアメリカ船が日本近海に出没し,
薪水・食料などを強要することが多くなった。

これに対処するため,
幕府は1825年に外国船打払令(異国船打払令)を出した。
蘭学を通じて世界の動きに目を向けていた高野長英や
渡辺崋山は外国船打払令の無謀さを説き,

幕府を批判し,処罰された。(蛮社の獄)
しかし,1840年に起こったアヘン戦争で清がイギリスに敗れ,
南京条約という不平等条約を結んだことが伝わると,
水野忠邦は外国船打払令(異国船打払令)を緩和した。

 天保の改革



1830年代,天保のききんが全国をおおい,
百姓一揆と打ちこわしが頻発した。

1837年,もと大阪町奉行所の役人で,
儒学の中の陽明学の学者であった大塩平八郎は
ききんで苦しむ人々を救うため,大阪で乱をおこした。

陽明学は「世の中の矛盾を知るだけでは何の価値もなく,
行動を起こすことが大切である」という
「知行合一」を重視する革命の理論という一面をもっていた。

1841年に老中水野忠邦は天保の改革を始めた。
倹約令を出し,農民が江戸に出稼ぎにくるのを禁止し,
物価を下げるために株仲間を解散させたが,
江戸・大阪周辺の農村を幕府の領地にしようとしたことで,
大名や旗本の反対にあい,改革はわずか2年で失敗に終わった。

 [要点-新しい学問と化政文化]
 
(1)
本居宣長は古典を研究して,古事記伝を著し,国学を大成した。
蘭学者の前野良沢杉田玄白はオランダの人体解剖書を翻訳して解体新書を著した。
伊能忠敬は正確な日本地図をつくった。
町人や農民の子供たちは寺子屋で読み・書き・そろばんを習った。

(2)
19世紀はじめに江戸を中心として化政文化がさかえた。
浮世絵の技術も進み,錦絵という多色刷りの版画も作られた。
風景画では葛飾北斎歌川(安藤)広重,美人画では喜多川歌麿が有名である。
小説では「東海道中膝栗毛」の十返舎一九,「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴,俳諧では与謝蕪村小林一茶がいる。
また,政治を風刺した狂歌川柳が好まれた。

 新しい学問





徳川吉宗が漢訳の洋書の輸入を許可してから,蘭学が発達した。
蘭学者の杉田玄白と前野良沢は
オランダの医学書を翻訳して解体新書を出版した。

江戸時代後半に来日したドイツ人シーボルトは
長崎の鳴滝で医学を教え,多くの弟子を育てた。

伊能忠敬は,幕府の命令で全国の海岸線を17年かけて測量し,
現在とほとんど変わらないほど正確な日本地図をつくった。

仏教や儒教にとらわれない,
日本の古典について研究する学問を国学といい,
本居宣長により大成された。



 化政文化
 




19世紀の初め,江戸を中心に民衆の文化が栄えたが,
この文化を化政文化という。

文芸では,世の中を風刺した狂歌や川柳が流行した。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」のような
こっけいな小説が人気を集める一方で,
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」なども多くの人に読まれた。

俳諧では,与謝蕪村が絵のような風景を表現し,
小林一茶は素朴な感情をよんだ。

浮世絵の技術も進み,錦絵とよばれる多色刷りの版画が大流行した。
歌川広重(安藤広重)や葛飾北斎は風景画のすぐれた作品を残し,
喜多川歌麿は美人画を描いた。
(上の「神奈川沖浪裏」は葛飾北斎の作品である)

 [要点-幕末~明治時代]
 
 年代  おもなできごと
 1853  アメリカのペリーの4隻の黒船が浦賀沖に現れる
 1854  日米和親条約:下田と函館を開く
 1858  日米修好通商条約:治外法権を認め,関税自主権をもたない不平等条約
→国内経済の混乱→尊皇攘夷運動→安政の大獄:大老井伊直弼
 1866  薩長同盟:坂本龍馬の仲立ちで薩摩藩と長州藩が倒幕で協力
 1867  大政奉還:15代将軍徳川慶喜→王政復古の大号令
 1868  鳥羽伏見の戦い→戊辰戦争
 1868(明治1)  (明治元年) 明治維新,五箇条の御誓文
 1869(明治2)  版籍奉還:土地(版)と人民(籍)を天皇に返す
 1871(明治4)  廃藩置県:藩を廃止して県を置く
岩倉視察団を欧米に派遣
 1872(明治5)  学制公布:小学校教育を義務づける
 1873(明治6)  徴兵令:20歳以上の男子に兵役の義務を課す
地租改正:地券を発行し,地価の3%を現金で納めさせる
 1874(明治7)  民撰議員設立建白書:征韓論に破れた板垣退助が提出
 1875(明治8)  千島・樺太交換条約
 1877(明治10)  西南戦争:西郷隆盛など薩摩の士族の反乱
 1881(明治14)  国会開設の詔勅→板垣退助の自由党,大隈重信の立憲改進党
自由民権運動がさかんになる
 1885(明治18)  内閣制度:初代の内閣総理大臣は伊藤博文
 1889(明治22)  大日本帝国憲法を発布
 1890(明治23)  第一回帝国議会:貴族院と衆議院
(選挙権は25歳以上の男子で国税15円以上)
(このころ軽工業を中心とする産業革命)
 1890(明治23)  教育勅語
 1894(明治27)  治外法権の撤廃に成功:イギリスがまず応じる,外務大臣は陸奥宗光
 1894(明治27)  日清戦争:甲午農民戦争がきっかけ
 1895(明治28)  下関条約→三国干渉:ロシア,フランス,ドイツ,遼東半島を返還
 1900(明治33)  義和団事件
 1902(明治35)  日英同盟:ロシアに対抗するためにイギリスと同盟
 1904(明治37)  日露戦争
 1905(明治38)  ポーツマス条約:米国が仲裁,全権は小村寿太郎→日比谷焼き討ち事件
(このころ重工業を中心とする産業革命)
 1910(明治43)  韓国併合
 1911(明治44)  中国で辛亥革命:指導者は三民主義の孫文→中華民国が成立

(1)
1853年ペリーの率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀の沖に現れ,日本に開国をせまった。
その翌年,日米和親条約を結んで,下田函館の2港を開港した。
大老の井伊直弼は,朝廷の許可が得られないまま,1858年日米修好通商条約ハリスとの間に結んだ。
この条約は,裁判では領事裁判権を認め,貿易では関税自主権が日本に認められない不平等なものであった。

(2)
開国によって経済が混乱し,幕府や外国に対する反感が強まり,尊王攘夷運動がおこった。
井伊直弼は,これを弾圧し,安政の大獄を行ったが,桜田門外で暗殺された。
薩摩藩生麦事件をおこすと,イギリスは鹿児島を攻撃した。
また,長州藩は外国船に砲撃を加えて攘夷を実行したが,四国連合艦隊は下関を攻撃し砲台を占領した。

(3)
薩摩藩と長州藩は,坂本龍馬のなかだちで薩長同盟を結んだ。
1867年,薩摩藩と長州藩が,武力で幕府をたおす計画をすすめているとき,15代将軍徳川慶喜は,政権を天皇に返すと申し出た。
これを大政奉還という。
これに対して,朝廷は王政復古の大号令を発した。
1868年,鳥羽・伏見で戊辰戦争が始まり,旧幕府軍をうち破った。

 ペリーの来航と不平等条約





1853年アメリカの使節ペリーが,
4隻の軍艦(黒船)をひきいて浦賀(神奈川県)沖に現れ,
幕府に開国をせまった。

アメリカは,貿易船や捕鯨船などが
日本の港で燃料・水・食料を補給できるように求めた。
幕府は,翌年の返事を約束してペリーをいったん引きとらせた。

幕府は,このことを朝廷に報告し,大名などの意見も聞いたが,
こうしたことは今までにないことで,
幕府の力のおとろえを示す結果となった。

翌1854年にペリーは,再び江戸湾に来航し,回答をせまった。
幕府は,やむなく,日米和親条約を結び,
下田(静岡県)と函館(北海道)の2港を開き,
燃料・水・食料を補給することと,
下田に領事をおくことなどを認めた。

下田に着任したアメリカ総領事ハリスは,
貿易開始のための条約を結ぶことを要求してきた。
幕府は朝廷に許可を求めたが,得られなかった。

1858年,通商がさけられないと判断した大老の井伊直弼は,
反対派の意見をおさえて,日米修好通商条約を結んだ。

この条約によって,函館・新潟・神奈川(横浜)・
兵庫(神戸)・長崎の5港を貿易港として開いた。

しかし,この条約は,日本で罪を犯した外国人を
その国の領事が裁く領事裁判権(治外法権)を認め,
輸入品に自由に関税をかける関税自主権が
日本にないという不平等なものであった。

続いて幕府は,イギリス・オランダ・ロシア・
フランスとも,同じような条約を結んだ。
開国後の最大の貿易相手国はイギリスであった。

輸出品は生糸と茶で,
輸入品は毛織物・綿織物・武器・艦船であった。

 開国の影響



開国後の最大の貿易相手国はイギリスであった。
輸出品は生糸と茶で,
輸入品は毛織物・綿織物・武器・艦船であった。

貿易が始まると,日本の経済は大きな影響を受けた。
関税自主権がなかったために,
イギリスの安価な機械製の綿織物が大量に輸入され,
国内の綿織物業は成り立たなくなってしまった。

また,最大の輸出品は生糸で,
輸出額の8割以上を占めていたが,
このために国内の生糸が品不足となり,
各地の絹織物業が圧迫された。

さらに,金と銀の交換比率が日本と外国で違っていたため,
外国商人は日本に銀を持ち込み金貨を持ち出した。
これに対して幕府は金貨の質を落としたが,
それは国内の物価の急激な上昇をもたらし,
国内経済は混乱した。

 安政の大獄・尊王攘夷運動



開国後の混乱の中で,
外国や幕府に対する反感が武士や民衆の間に高まり,
外国人を打ち払えという攘夷論が高まった。

さらに,幕府が朝廷の反対を退けて開国したことから,
攘夷論と,朝廷の権威を高めようとする尊王論とが結びつき,
尊王攘夷運動に発展していった。

1858年に幕府の大老の井伊直弼は日米修好通商条約を結んだが,
反対していた大名や武士を弾圧した。
これを安政の大獄というが,
これによって,長州藩の吉田松陰や
越前藩の橋本左内は死刑に処せられた。

しかし,かえって反発は強まり,
860年,江戸城桜田門外で,
井伊直弼は水戸藩の浪人によって暗殺された。(桜田門外の変) 

井伊直弼の死によって,尊王攘夷運動は勢いを得ていった。
1863年,幕府は,朝廷や大名の主張に動かされて,
やむなく外国を排除する攘夷の命令を全国に出した。

これを受けて長州藩は1863年,
下関を通る外国船に砲撃をくわえた。
しかし,翌年,イギリス・フランス・アメリカ・
オランダからなる四国艦隊に攻撃され,
下関砲台を占領された。

薩摩藩も,1862年,
イギリス商人を殺害する事件(生麦事件)を起こしたため,
翌1863年にイギリス艦隊に鹿児島を砲撃され,
大きな損害を受けた(薩英戦争)。

これらの事件によって,長州藩と薩摩藩は,
外国の軍事力の強大さを思い知り,
攘夷が不可能であることを悟った。

 倒幕





外国艦隊の砲撃を受け,完全な敗北を経験した長州藩と薩摩藩は,
攘夷が不可能なことを身をもってさとった。

さらに,この強力な欧米列強の植民地になることをまぬかれ,
独立を保っていくためには,
幕府を倒して強い統一国家を作るしかないという結論に達した。

1866年に,土佐藩出身の坂本龍馬(竜馬)らの仲立ちで,
薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結び,
薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通,
長州藩の木戸孝允と高杉晋作を中心に,
倒幕へとむかっていった。

1866年,幕府は,第二次長州征伐を行ったが,各地で破れた。
このころ,全国で世直しを期待して一揆が起こり,
1867年には,「ええじゃないか」といって
人々が熱狂するさわぎが,各地で流行した。

1867年,薩摩藩と長州藩が武力で幕府を倒す計画を進めているとき,
15代将軍の徳川慶喜は,政権を天皇に返すことを申し出た。
これを大政奉還という。

慶喜は,天皇のもとに大名の会議を作り,
自分は議長として政治の実権を持ち続けようと考えていた。
これに対し,朝廷は王政復古の大号令を発表して
新政府の成立を宣言し,幕府の領地を取り上げ,
天皇が直接政治を行うことを決めた。

これを不満とした旧幕府軍は,
1868年1月,新政府と戦争を起こしたが,
鳥羽・伏見の戦いで敗れた。
新政府は,軍を東にすすめ,江戸城を明け渡させた。

ついで,会津若松など東北地方で戦い,
最後に北海道函館の五稜郭にたてこもった幕府軍を打ち破った。

鳥羽・伏見から函館にいたるこの戦いを戊辰戦争という。

 先頭に戻る


 明治
 [要点-明治維新]
 
(1)
天皇が神に誓うという形で五箇条の御誓文を出した。
1869年版籍奉還によって各大名の領地と人民を政府にかえさせ,さらに1871年廃藩置県を断行した。
また四民平等をとなえて江戸時代の身分制を改めた。
このような新政府の一連の改革を明治維新という。

(2)
新政府は富国強兵を唱え,官営模範工場を作るなど殖産興業を推進した。
さらに,徴兵令を出して,20歳以上の男子兵役の義務を課した。
財政の基礎を固めるために地租改正を行い,地価を決めて土地の所有者に地券を発行し,地価の3%現金で納めさせることにした。
また,1872年学制を定めてすべての国民に小学校教育を受けさせることにした。

(3)
1871年に清と日清修好条規を結び,1875年にロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。
朝鮮との関係については,江華島事件がおこり,日本は日朝修好条規を朝鮮におしつけた。
北海道の開拓を進めるために札幌に開拓使をおき,士族などを屯田兵として配置した。

(4)
明治初期,西洋風の生活様式が取り入れられたが,これを文明開化という。
福沢諭吉は「学問のすゝめ」を著し,自主独立の精神と学問の必要を説いた。

 五箇条の御誓文





新政府は,1868年,天皇が神に誓う形で,
「広ク会議ヲ興シ万機公論に決スベシ」
「智識ヲ世界二求メ,大ニ皇基ヲ振起スベシ」
という五箇条の御誓文を出し,外国の文化をとり入れ,
世論にしたがった新しい政治を行うことを明らかにした。

しかし,国民に対しては五榜の掲示を出して
一揆やキリスト教を禁止するなど
江戸幕府と変わらない政策を示した。


 版籍奉還・廃藩置県





ヨーロッパ列強の植民地支配の動きに対抗して
独立を維持するためには中央集権国家を
つくることが必要であった。

しかし,徳川幕府を倒して,新政府が成立した後も,
大名を領主とする藩はそのまま残っていたので,
1869年(明治2年),政府は版籍奉還を実施し,
土地と人民を天皇に返させた。

しかし,この改革は形式的なものであり,
旧藩主がそのまま藩政にあたることとしたため,
政府が全国を直接治める中央集権にはほど遠いものであった。

政府の収入も限られた直接の支配地からの年貢のみであった。
そこで,薩摩・長州・土佐の3藩から約1万人の兵を東京に集めて
政府直属の御親兵として中央の軍事力を固めた。

そして,大久保・西郷・木戸らがひそかに計画をすすめ,
1871年(明治4年),廃藩置県を断行した。
これは,藩を廃して府・県をおき,
中央から府知事・県令を派遣して治めさせ,
もとの藩主に対しては東京に住むことを命じた。

これによって,国内の政治的統一が完成し,
新しい中央集権の国家ができた。
廃藩置県は,大名や武士の生活の基礎をうばい取ることであり,
大きな変革であった。

 四民平等



政府は四民平等をとなえて,江戸時代の身分制を改めた。
四民平等は,天皇のもとに国民を一つにまとめて
近代国家作りをすすめるために必要不可欠なものであった。

その結果,国民はすべて名字を名のり,
職業や居住地の自由を認められた。

ただし,天皇の一族を皇族,もとの公家と大名を華族,
武士を士族とし,農民と町人を平民とした。

また,えた,ひにんなどの呼び名を廃止し,
身分・職業ともに平民と同じにする解放令を出した。

四民平等になって,ちょんまげをゆうことや,
刀をさすことはしだいに廃止されていった。

 維新の改革①:学制・徴兵令



19世紀にヨーロッパ諸国はアジアへ進出し,
植民地化をすすめた。
なかでも,イギリスは1840年に
中国の清とのアヘン戦争に勝利をおさめ,
南京条約を清との間に締結した。

この情報は幕末当時の知識階層に大きな衝撃を与えた。
日本もこのままではヨーロッパ列強の植民地に
なってしまうかもしれないという危機意識は,
明治維新を主導した藩閥の指導者たちに
共通したものであった。
こうした,危機から脱却するために,
ヨーロッパ諸国を手本として,
経済を発展させるとともに
軍備を強化する富国強兵をおしすすめることが
当時の最大の国家目標となった。

富国強兵をすすめるためには,
まず,税制,学制,兵制の三大改革を
おこなうことが必要であった。

1872年に,学制が公布され,
6歳以上のすべての男女に小学校教育を受けさせることとした。

兵制については,
それまでの武士にかわる全国統一の近代的な軍隊をつくるため,
1873年に徴兵令を出し,満20歳に達した男子は,
士族,平民にかかわらず兵役の義務を負うこととした。

 維新の改革②:地租改正



国家としての機能を維持し,
さらに富国強兵のための各種改革をすすめていくためには
巨額の資金が必要であった。

しかし,明治初期の日本は貧しい農業国であり,
政府が進める改革のための財源は,
おもに農民が納める米であった(約7~8割)。

しかし,江戸時代と同じ方式では,
収穫高と変動する米価のために収入が一定せず,
予算を立てて計画的な財政支出をおこなうことができなかった。

そこで,1873年(明治6年)に地租改正を行い,
1)土地の所有者と地価を定めて
 土地の所有者に地券を与え,
2)課税の基準を収穫高から地価に変更し,
3)税率を地価の3%として
 所有者に現金で納めさせるように改正を行った

課税の基準を収穫高から地価に変更することで,
豊作不作にかかわらず,
また,米の値段の高低にかかわらず,
一定の税収を確保することができるようになり,
政府の収入は安定した。

しかし、1876年には地租改正反対一揆がおこり,
地租は地価の3%から2.5%に引き下げられた。

 殖産興業
 


明治政府が近代産業を育てることをめざして
進めた政策を殖産興業とよんでいる。

政府は群馬県の富岡製糸場に代表される
官営模範工場をつくったり,博覧会を開いたりして,
技術の開発と普及をはかった。

経済の発展に欠かせない交通・通信部門の整備も進められた。
1872年には新橋・横浜間に陸蒸気が走り,
また,飛脚にかわる近代的な郵便制度が
前島密によって整えられた。

 北海道の開拓



開拓使を設置して北海道の開拓を進めた。
農民を移住させ,士族を屯田兵として配置した。

また,アメリカ人クラークを招いて
札幌農学校を開き農業技術の導入を図った。

 文明開化



近代化をめざす政策により,
欧米の文化がさかんに取り入れられ,
伝統的な生活が変化し始めたが,
これを文明開化とよぶ。

都市では洋風の建築が増え,
道路には人力車や馬車が走り,
ランプやガス灯がつけられた。

また,洋服やコート,帽子が流行し,
牛肉を食べるなど,食生活の変化も始まった。

暦も1873年から太陽暦が採用された。

 近代思想



欧米の近代思想も次々に紹介され,
人間の平等と民主主義がわかりやすい形で説かれた。

ルソーらの民主主義思想を紹介したのは中江兆民である。
これらの思想は青年たちに大きな影響を与え,
やがて自由民権運動へとつながっていった。

 岩倉使節団



外交問題では,幕府からひきついだ
不平等条約の改正が大きな課題であった。

1871年,廃藩置県を断行した直後,
岩倉具視を全権大使とする使節団を欧米に送った。

条約改正はできなかったが,
大久保利通,木戸孝允,伊藤博文など
政府の主要メンバーの半数が,
約2年間,欧米の進んだ政治,産業,文化を直接に体験し,
国力の充実が必要であると痛感して帰国した。

使節団には,数多くの留学生も同行したが,
その中には,津田梅子など5人の女子留学生も含まれていた。

 征韓論・日朝修好条規



1871年,清との間で対等な立場で日清修好条規を結んだ。
明治政府は朝鮮に対しても国交を開くことを求めていたが,
鎖国政策をとっていた朝鮮はこれを拒否した。

政府内には武力で朝鮮を開国させようという征韓論がおこった。
征韓論の中心になったのは岩倉使節団が外遊している間の
留守政府の中心であった西郷隆盛や板垣退助である。

征韓論は士族たちの不満を外に向けるねらいもあった。
しかし,征韓論は,欧米視察から帰ったばかりの
大久保利通らの反対によって否定され,
西郷や板垣は政府から去った。
これを明治6年の政変という。



1875年,日本は軍艦を朝鮮に派遣し,
沿岸を無断で測量して朝鮮側を挑発し砲撃を受けると,
これを占領した。

この江華島事件をきっかけに,
軍事力を背景にして領事裁判権などをふくむ
不平等な日朝修好条規を朝鮮に認めさせた。

 樺太・千島交換条約



1875年(明治8年),ロシアとの間で,
日本がウルップ島以北の千島列島を領有するかわりに,
樺太をロシアに譲るという樺太・千島交換条約を結んだ。

 琉球処分



江戸時代,琉球は薩摩藩の支配下におかれていたが,
中国(清)にも朝貢しており,
形式上は日本と中国の両方に属する形であった。

日本は,1872年に琉球藩をおいて政府直属とした。
しかし,宗主権を主張する清はこれに抗議した。

1871年に台湾で琉球漂流民の殺害事件が起こったが,
日本は1874年に台湾に出兵を行った。
日本は清に対して強硬な立場をとり,
日本の出兵が正当なことであることを認めさせ,
賠償金を支払わせた。

明治政府は,1879年に琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。
これを琉球処分という。

 [要点-自由民権運動・国会の開設]
 
(1)
明治六年の政変で,征韓論を主張した西郷隆盛板垣退助は政府を去り,大久保利通が実権を握って殖産興業などの近代化政策をおしすすめた。
しかし,藩閥政治に対する士族の不満が高まり,九州や中国地方で士族の反乱がおこり,1877年には西郷隆盛が西南戦争をおこした。

板垣退助は民撰議院設立の建白書を提出し自由民権運動を始めた。
1881年に政府が10年後に国会を開設することを約束すると,板垣退助自由党を,大隈重信立憲改進党を結成した。

(2)
政府は伊藤博文をドイツへ派遣し,君主権が強いドイツ(プロイセン)の憲法を学ばせた。
1885年には内閣制度を作って初代の総理大臣伊藤博文を就任させた。
1889年大日本帝国憲法を発布し,翌年に第一回帝国議会が開かれた。
帝国議会は貴族院衆議院の二院制をとっていたが,国民が選挙で選べたのは衆議院議員だけで,選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上納める者にかぎられた。
1890年教育勅語が発布された。

 士族の反乱

 

藩閥政治に対する士族の不満は,
一方では自由民権運動を生んだが,
他方では佐賀の乱(1874年),萩の乱(1876年)などの
不平士族の反乱をもたらした。

その最大のものは,征韓論に敗れて鹿児島に帰った
西郷隆盛が中心になっておこした
1877年(明治10年)の西南戦争である。
士族からなる西郷軍は,戊辰戦争の経験者も多く,
徴兵された農民が中心の政府軍を見下していたが,
政府軍の近代的装備の前に敗れ,西郷は自殺した。

西南戦争による政府軍の勝利は,
武力によって政府を倒すことは不可能であることを
実証したものであり,これを最後に士族の反乱はおさまった。

 自由民権運動



征韓論の議論に敗れた板垣退助は,
翌1874年に民撰議院設立の建白書を提出した。

その中で,
「政権は天皇にも人民にもなく,有司(役人)ににぎられている。
その有司はかってに法律をつくり,自由を圧迫している。
こういう有司の専制が続く限り,国家はくずれてしまうであろう。
・・・それを改める方法は,民撰議院を設立することである。
租税を納める人民は,立法・行政に参加する権利を持っている。
民撰議院こそそのための機関である。」
と述べている。

さらに,高知県に帰った板垣は立志社をつくって
自由民権運動を始めた。



1877年の西南戦争における政府軍の勝利によって,
武力によって政府に対抗することは
もはや不可能であることがわかったが,
士族や農民の不満が解消したわけではなかった。

西南戦争以降は,国会開設を求める自由民権運動に
しぼられるようになった。
政府部内でも,欧米列強にならった強国をつくっていくためには,
憲法と議会をもつ立憲政治をおこなって,
国を自主的に支えようとする国民の意識を
育てていくことが必要だという考えがあった。

ただ,その実施時期・方法については対立があり,
国会の即時開設を主張する大隈重信と,
時間をかけるべきだとする伊藤博文らが対立した。

1881年,北海道開発のために多額の国費をかけてつくった施設を
薩摩出身の商人に不当に安い値段で売ろうとしたことが,
国民に知れて,藩閥政府を攻撃する声が,いっそうはげしくなった。

これに対して,
政府は10年後に国会を開くことを約束した(国会開設の勅諭)。
同時に,大隈が民権派に情報を流した張本人とみて,
大隈を政府から追い出した。



国会開設にそなえ,板垣退助は自由党を結成し,
大隈重信は立憲改進党を結成した。

士族や農民に支持された板垣の自由党は,フランスを理想とした。
大隈の立憲改進党はイギリスを手本とした。

 憲法の準備・内閣制度



国会開設にそなえて政府は,
伊藤博文をドイツに派遣して憲法を調査させた。

ドイツの憲法を手本にしたのは,
ドイツの憲法は君主権の強い憲法で
わが国の実情にあっていたからである。

1885年,それまでの太政官制にかわって,内閣制度をつくった。
初代の内閣総理大臣には伊藤博文が任命された。
憲法を審議するために枢密院という天皇の相談機関がつくられた。

 大日本帝国憲法



1889年2月11日に,
天皇が国民に与えるという形で大日本帝国憲法が発布された。

大日本帝国憲法は,
第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるように,
天皇を主権者と定めた。
国民の権利については「法律ノ範囲内」という制限はあったが
憲法で保障された。

また,天皇と行政府の権限がきわめて強いものであったが,
帝国議会での予算案・法律案の審議を通じて
国政に参与する道が開かれた。

さらに,大日本帝国憲法が発布された翌年の1890年,
教育勅語が出されて,忠君愛国の道徳が示され,
教育の柱とされるとともに,
国民の精神的,道徳的なよりどころとされた。

 帝国議会



1890年に第一回帝国議会が開かれた。
帝国議会は,国民の選挙で選ばれた議員で構成される衆議院と,
皇族・華族の代表と天皇が任命した者,
多額納税者の代表で構成される貴族院の2つの議院から成り立っていた。

衆議院議員の選挙権は,満25歳以上で,
直接国税15円以上を納める男子に限られた。
それは当時の全人口の1.1%にすぎなかった。

 [要点-条約改正・日清戦争と日露戦争]
 
(1)
不平等条約の改正は明治政府にとって重要課題であった。
明治のはじめに岩倉具視らを欧米へ派遣したり,鹿鳴館を建てて舞踏会を開いたりした目的は,条約改正であった。
日清戦争の直前,陸奥宗光はイギリスと交渉して領事裁判権の撤廃に成功した。
関税自主権の回復が達成されたのは1911年で,小村寿太郎が外務大臣のときであった。

(2)
朝鮮の甲午農民戦争をきっかけに,1894年日清戦争が始まった。
戦争は日本の勝利におわり,下関条約が結ばれ,日本は3億円の賠償金と,台湾・遼東半島を獲得した。
ロシアは,フランスとドイツを誘って,遼東半島を清に返還すべきだと圧力をかけてきたが,これを三国干渉という。
これに対抗できず,多額の賠償金と引き替えに日本は清に遼東半島を返還した。

(3)
1900年義和団事件がおこったが,ロシアはそのまま満州に大軍を駐留し続けた。
これに対抗するため,1902年日英同盟が結ばれた。
1904年日露戦争がおこり日本はからくも勝利をおさめ,アメリカの仲立ちにより,ポーツマス条約が結ばれた。
日本の全権大使は小村寿太郎であった。
しかし,賠償金がとれなかったことに不満をもった民衆は日比谷焼き打ち事件をおこした。

(4)
1910年日本は韓国併合を実行した。
義和団事件ののち,列強の中国侵略が進むなか,孫文三民主義を唱え,中国同盟会をつくって革命運動を指導した。
1911年辛亥革命がおこって清朝が倒れ,南京を首都とする中華民国が成立し,孫文が臨時大総統に就任した。
しかし,軍閥の袁世凱は孫文を追い出して大総統の地位についた。

 条約改正



条約改正にいち早く応じたのはアメリカで,
1878年(明治11年)に関税自主権の回復に合意したが,
イギリスなどの賛成が得られず実現しなかった。

その後,外務大臣井上馨は,
鹿鳴館を建てて外国人をまねき舞踏会を開くなど
条約改正の努力を続けた。

1886年(明治19年)にイギリス船ノルマントン号が
和歌山県沖で沈没し,日本人乗客全員が水死する事件が起きた。

しかし,イギリス領事裁判所は,
イギリス人船長に軽い罰をあたえただけだったため,
不平等条約改正を求める世論が高まった。

井上は日本国内を外国人に開放することと,
外国人を被告とする裁判には
半数以上の外国人裁判官を採用することを条件に交渉をすすめた。
しかし,外国人裁判官の採用については,
政府部内でも国家主権の侵害になるとの反対意見が強く,
井上は交渉を中止して外務大臣を辞任した。

日清戦争直前の1894年(明治27年),
外務大臣の陸奥宗光はイギリスと交渉して
領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の一部の回復に成功した。

この時期に条約改正にイギリスが応じたのは,
ロシアの東アジアへの進出に対抗するため
日本と手を結ぶ政策をとるようになったからである。

それと,憲法が制定され,議会も開設されて
アジアで初めて立憲制国家になったことも条約改正に有利に働いた。

関税自主権の完全な回復は,日露戦争後の1911年(明治44年)であった。
そのときの外務大臣は小村寿太郎であった。


 日清戦争



朝鮮では,日本と清が勢力争いをくりひろげていた。
朝鮮国内では,明治維新にならって近代化をはかろうとする親日派と,
清との関係を維持しようとする親中派とが,激しく対立していた。

当時,ロシアが南下政策をとりつつあり,
朝鮮がロシアの手に落ちれば,
やがて,日本そのものが危うくなるという危機感があった。

朝鮮における清との対立が深まる中,
日本は軍備の増強をはかった。

図は日清戦争の風刺画である。
aが日本,cが清で,水の中の魚は朝鮮である。
日清戦争が朝鮮をめぐる日本と清の争いであったことを表している。
橋の上から漁夫の利を得ようと機会をうかがっているbはロシアである。





朝鮮では政治・経済が混乱するなかで,
東学という民間宗教を信仰する農民などが,
1894年,外国人排斥や政治改革をめざして兵をあげた。
これを甲午農民戦争という。

これを機に,清と日本は出兵し,日清戦争が始まった。
日清戦争は日本の勝利に終わり,
翌1895年,下関条約が結ばれた。

この条約で清は,
1)朝鮮の独立を認め,
2)遼東半島,台湾などを日本に譲る,
3)賠償金3億円を日本に支払うこと,
などを認めた。



一方,満州への進出をねらっていたロシアは,
ドイツとフランスをさそって,
日本に対して遼東半島を清に返すように要求してきた。
これを三国干渉という。

当時,日本はロシアなどと戦う力はなかったので,
この圧力に屈して賠償金とひきかえに遼東半島を清に返還した。
その後,ロシアはこの遼東半島を清から租借した。

 列強の中国侵略と義和団事件



それまで「ねむれる獅子」とよばれていた清が
日清戦争で日本にやぶれ,弱体ぶりをさらけ出すと,
欧米列強は,中国にせまって港湾などを租借し,
鉱山の開発や鉄道の敷設権などのさまざまな利権を獲得し,
中国分割を進め,中国は半ば植民地化されていった。

これに反発して中国国内では排外運動がおこり,
1900年に義和団が扶清滅洋を唱えて
北京の列国公使館を包囲する義和団事件が起こった。

これに対し,日本やロシアを主力とする
8ヶ国の約7万人の連合軍が派遣されて
ようやくこれを鎮圧した。

義和団事件後,ロシアは満州に大軍をとどめて事実上ここを占領し,
朝鮮半島へも勢力をのばそうとしていた。

 日英同盟



義和団事件後,
ロシアは満州に大軍をとどめて事実上ここを占領し,
朝鮮半島へも勢力をのばそうとしていた。

当時の日本政府は,
朝鮮半島がロシアの支配下に入ってしまえば,
次は日本自体が危うくなるという危機感を持っていた。

こうした,ロシアの中国への進出は,
イギリスが中国にもつ権益も危うくするものであったので,
イギリスは日本へ接近し,同盟の締結をもちかけた。

政府部内では,
強大なロシアと戦火を交えることは避けたいと
満韓交換(満州はロシア,朝鮮は日本)で,
ロシアとの妥協をはかりたいとする考えもあったが,
軍事力に自信を持つロシアはこれに応じる様子はなかった。

そこで,政府はイギリスと手を結んで
ロシアの動きに対抗することを決し,
1902年に日英同盟が締結された。



上図は日露戦争の風刺画である。
bのロシアにaの日本が立ち向かい,
cのイギリスが日本を後押ししている様子が描かれている。

イギリスは中国の長江流域を勢力範囲にしていたが,
満州をおさえ,さらに南下しようとしていたロシアに対抗するため,
日本と1902年に日英同盟を結んだ。

 日露戦争



1904年,日本とロシアの間で日露戦争が始まった。
社会主義者の幸徳秋水,キリスト教徒の内村鑑三 ,
与謝野晶子は戦争に反対の声をあげたが,
当時のジャーナリズムは威勢のいい主戦論を書き立てていた。

政府は巨大な軍事力をもつロシアと戦うことには慎重で,
何度もロシアと交渉を重ねた。

しかし,ロシアとの間に妥協は成立せず,
こうして,1904年に日露戦争が始まった。
日本軍は苦戦を重ねつつも戦局を有利にすすめ,
日本海海戦でも勝利をおさめた。

しかし,日本の戦力は限界に達し,
ロシアでも革命が起こるなど,
両国とも戦争の継続が困難になった。

1905年,
アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの仲介によって
講和会議が開かれ,ポーツマス条約が結ばれた。

この条約で,ロシアは,
1) 朝鮮における日本の優越権を認め,
2) 旅順・大連の租借権,長春以南の鉄道の利権を日本に譲る,
3) 樺太の南半分を日本に譲る,
4) 北緯50度以南の漁業権を日本へ譲る,
ことを認めた。

このときの日本の全権は外務大臣の小村寿太郎であった。
しかし,賠償金を得ることはできなかった。
これに対して国民の不満が高まり,
各地で講和反対集会が開かれ,
東京の日比谷では焼き打ち事件が起こった。

 韓国併合



日本は,日露戦争後,
韓国統監府を置いて朝鮮の植民地化を進めた。

初代の韓国統監になった伊藤博文が,
朝鮮人青年の安重根に暗殺された事件の後,
1910年に韓国併合を行った。

日本は,朝鮮総督府を設置して,
武力を背景にした朝鮮支配をおしすすめ,
学校では朝鮮史を教えることを禁じ,
日本史や日本語を教えて,
日本人に同化させる教育をおこなった。

また,土地の調査を進め,
所有権が明確でない土地を取り上げた。

 中国の辛亥革命



中国では帝国主義列強の圧迫に対抗する動きが強まり,
清を倒して民族の独立と近代国家の建設をめざす運動がおこった。

1911年,三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を唱える
孫文を中心にして辛亥革命がおこり,
1912年に孫文を臨時大総統とし,
南京を首都とする中華民国が建国された。

 [要点-資本主義の発展と明治の文化]
 
(1)
日本でも19世紀末頃に,軽工業を中心にした産業革命が始まった。
日清戦争の賠償金でつくられた八幡製鉄所は,重工業の出発点となった。

三井・三菱・住友・安田などの大資本家は財閥と呼ばれるようになり,経済を支配した。
足尾銅山の鉱毒事件などの公害が発生し,田中正造は日本最初の公害反対運動を指導した。

(2)
岡倉天心とアメリカ人フェノロサは日本画を復興させた。
洋画では「読書」を描いた黒田清輝が有名である。

音楽では,「荒城の月」などを作曲した滝廉太郎が有名である。
文学では,明治の文豪とよばれる夏目漱石が個人主義の立場から,社会をきびしく見つめた。

 日本の産業革命



1880年代の中ごろから,
紡績業や製糸業などの軽工業を中心として
産業革命が起こった。

その結果,日本は綿製品を自給できるようになり,
1890年ごろからは中国・朝鮮に輸出するようになった。

また,製糸業の製品である生糸の大部分をアメリカに輸出して,
兵器や機械・原料を輸入する資金を得た。

重工業では,日清戦争後の1901年,
清国からの賠償金をもとに,
官営の八幡製鉄所が建設され,
その後,鉄鋼,電気,造船などが発達した。

こうした産業の発展の中で三井,三菱,住友,安田の資本家は,
金融・貿易・鉱山業などの多角経営を行って,
日本経済を支配する財閥に成長していった。

 労働問題・公害



労働者は長時間労働・低賃金に苦しんだ。
そこで,労働者は団結して,
資本家に待遇改善を要求する労働運動を行い,
社会主義思想も広まり始めた。

また,鉱工業がさかんになると,
排水や煙による被害も出るようになった。

栃木県の足尾銅山では鉱毒が農産物などに被害を与え,
田中正造を中心にした公害反対運動が起こった。

 明治の文化

[文学]


坪内逍遙:「小説神髄」
島崎藤村:「破戒」「若菜集」
夏目漱石:「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」
森鷗外 :「舞姫」
樋口一葉:「にごりえ」「たけくらべ」
与謝野晶子:「みだれ髪」
石川啄木:「一握の砂」
正岡子規:俳句の近代化につとめた。

[絵画]


黒田清輝:「読書」「湖畔」「舞妓」
岡倉天心:フェノロサとともに日本の伝統美術の復興に力を注いだ。
横山大観:「無我」
狩野芳崖:「悲母観音像」
高村光雲:「老猿」
荻原守衛:洋風の近代彫刻。「女」
滝廉太郎:「荒城の月」

[医学・科学]
北里柴三郎:細菌学で破傷風血清療法の発見。
野口英世 :黄熱病の研究を行った。
志賀潔  :赤痢菌を発見した。
長岡半太郎:原子物理学

 先頭に戻る


 大正
 [要点-大正~昭和時代]
 
 年代  おもなできごと
 1914(大正3)  バルカン半島はヨーロッパの火薬庫,オーストリア皇太子暗殺事件
第一次世界大戦→日本は日英同盟を根拠にドイツを攻撃
 1915(大正4)  日本の中国に対する二十一か条の要求
 1917(大正6)  ロシア革命:指導者はレーニン→ドイツと単独講和,アメリカ参戦
 1918(大正7)  米騒動:富山県,シベリア出兵を見込んだ商人の米買い占め→米価高騰
最初の本格的政党内閣:原敬内閣
 1918(大正7)  パリで講和会議→1919年にベルサイユ条約
 1919(大正8)  日本に対し,朝鮮で三・一独立運動,中国で五・四運動
インドでは,ガンディーを中心にイギリスからの独立運動
 1920(大正9)  国際連盟発足:アメリカ大統領ウィルソンが提唱
 1921(大正10)  大正デモクラシー:吉野作造の民本主義,美濃部達吉の天皇機関説
 1923(大正12)  関東大震災が起こり,東京は壊滅状態に
 1924(大正13)  第二次護憲運動→加藤高明内閣が成立
 1925(大正14)  普通選挙法(25歳以上の男子に選挙権),治安維持法(社会主義の取締り)
 1929(昭和4)  世界恐慌→アメリカではルーズベルト大統領のニューディール政策
イギリス・フランスはブロック経済,ドイツではヒトラーの独裁
イタリアではムッソリーニの独裁,ソ連ではスターリンの計画経済
 1931(昭和6)  満州事変→1932年満州国を建国させる
 1932(昭和7)  五・一五事件:犬養毅首相暗殺さる→政党政治の終了
 1936(昭和11)  二・二六事件
 1937(昭和12)  日中戦争始まる→中国の国民党と共産党,抗日民族統一戦線を結成
 1938(昭和13)  国家総動員法:国民の徴用,物資の調達
 1939(昭和14)  ドイツのポーランド侵入→第二次世界大戦
 1940(昭和15)  政党を解散させ,大政翼賛会を結成
 1940(昭和15)  日独伊三国同盟
 1941(昭和16)  日ソ中立条約
 1941(昭和16)  ハワイ真珠湾を奇襲→太平洋戦争:首相は東条英機
 1945(昭和20)  3月沖縄戦,8月広島と長崎に原爆が投下される
ポツダム宣言を受諾して,敗戦

(1)
ヨーロッパの火薬庫と呼ばれていたバルカン半島のサラエボで,オーストリアの皇太子がセルビアの青年に暗殺される事件が起きた。
ドイツ,オーストリアの同盟国側と,セルビアを助けるロシア,イギリス,フランスの連合国側の間で,第一次世界大戦が始められた。

(2)
大戦が始まると,日本は日英同盟を根拠に連合国側にたってドイツを攻撃した。
また,日本は中国に対して二十一か条の要求を突きつけた。
1917年レーニンを指導者としたロシア革命がおこり,ロシアはドイツと単独講和を結んだ。1917年,アメリカが参戦し,ドイツは1918年に降伏した。

(3)
1919年講和会議がフランスのパリで開かれた。
アメリカ大統領のウィルソンの提唱により,1920年に平和のための組織として国際連盟が設立された。
その本部はスイスのジュネーブに置かれた。
1921年にワシントン会議が開催された。
戦後,ドイツではワイマール憲法が制定され,20歳以上の男女の普通選挙や社会権が規定された。

(4)
1919年,朝鮮で日本からの独立を求めて,三・一独立運動がおこり,中国でも,日本が突きつけた二十一か条の要求の取消を求める五・四運動がおこった。
インドでは,ガンディーの指導のもと,イギリスに対する非暴力・不服従の抵抗運動が起こった。

 帝国主義



19世紀末,イギリス,フランス,ドイツなどの列強は,
原料や,製品の市場を海外に求めるようになり,
軍事力を背景に植民地を求めてアジア・アフリカへ侵略を重ね,
たがいに対立するようになった。
このような動きを帝国主義という。

イギリスとインドの航海距離を半分に縮めた交通路は
スエズ運河である。
1869年にスエズ運河が開通すると,
イギリスは運河会社の株を買い占め,
さらにエジプトを占領してインドへの通路を確保した。

 列強の対立と第一次世界大戦の勃発



ドイツは,オーストリア,イタリアと三国同盟を結び,
ベルリン-ビザンチウム-バクダッドへ
積極的に勢力をのばそうとする3B政策をとった。

これはイギリスの3C政策(カイロ-カルカッタ-ケープタウン)と
対立するものであり,
イギリスは,フランス,ロシアと三国協商を結んで対抗した。

これらの列強は世界中で対立していたが,
しだいにバルカン半島が対立の中心になり,
民族・宗教の対立もからんで,
バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫(かやくこ)」と
よばれるようになった。

1914年,バルカン半島のサラエボという都市で,
オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺される
というサラエボ事件がおこり,
オーストリアとセルビアが開戦し,
ドイツ,トルコなどの同盟国がオーストリアにつき,
イギリス,フランス,ロシアなどの連合国がセルビアについて,
戦争は世界中に広がって,第一次世界大戦が始まった。

なお,イタリアは戦争が始まると同盟国側についた。

 日本の参戦



日本は,中国への権益をのばすために,
日英同盟を根拠に連合国側にたって
ドイツの拠点であった山東半島の青島を攻撃した。

さらに日本は中国に対して,
山東半島のドイツ権益の継承,旅順・大連の租借期間の延長など
二十一か条の要求を出し,これを認めさせた。

 大戦景気



1914年に第一次世界大戦が始まると,
ヨーロッパ各国からアジアなどへの輸出が減少したため,
日本のアジア市場などへの輸出が約3倍に急増し,
好景気になった。

造船・海運・鉄鋼業などで,
にわかに巨額の利益をあげた成金とよばれる人々が生まれた。

しかし,戦争が終わって
ヨーロッパ各国がアジア市場にもどってくると,
輸出は減少に転じた。

 ロシア革命と米騒動

 

戦争が長引くにつれ,ロシア国内では国民の生活が苦しくなり,
労働者のストライキなどが広がった。

こうした中,1917年にレーニンを指導者としてロシア革命がおこり,
1918年ロシアはドイツと単独で講和した。

1922年,ソビエト社会主義共和国連邦が
世界で初めての社会主義国として成立した。

ロシア革命の影響が及ぶことを恐れた日本,アメリカ,
イギリス,フランスはシベリア出兵を行った。

日本国内では,シベリア出兵を見こした商人の米の買い占めによって,
米は異常な値上がりを続けた。

1918年,富山県の漁村の主婦たちが,
米の県外への積み出しを実力で止め,
安売りを求める事件が起きた。

新聞でこれが報道されると,
全国各地で米の安売りを求めて民衆が集まり,
米屋・金貸し・大商店におしかけるなど
はげしい行動を起こした。
これを米騒動という。

 ベルサイユ条約と国際連盟
 


1918年にドイツが降伏し,1919年にパリで講和会議がひらかれ,
ベルサイユ条約が結ばれた。

イギリスとフランスは,ドイツに巨額の賠償金や
軍備縮小をおしつけた。

また,この条約でドイツは,領土を削減され,
すべての植民地を失った。

1920年,アメリカ大統領のウィルソンの提案にもとづき,
世界平和を守るための国際機構として国際連盟がつくられた。
本部はスイスのジュネーブにおかれ,
日本は4常任理事国の1つになった。

しかし,当初は,アメリカ自身が議会の反対で参加しなかったうえ,
ドイツやソビエト政府が除外されていた。
さらに,平和を維持するための強制力をもたなかったため,
世界平和を保つためには力不足であった。

また,1921年にはワシントン会議が開かれた。
この会議で,アメリカ・イギリス・日本などの
主力艦の保有量を制限する軍縮条約が結ばれた。

また,アメリカ・イギリス・フランス・日本は,
太平洋での勢力範囲の維持と,
日英同盟の廃止を決めた四か国条約をむすんだ。

さらに,中国の主権を尊重し,
各国の中国での経済活動の自由を約束した九か国条約も結んだ。

一方,ロシアの革命政府は,内戦と列強の干渉戦争を切り抜け,
1922年に,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を樹立したが,
欧米各国は,当初,承認を行わなかった。

 戦後のドイツなど



戦後のヨーロッパでは,民主主義の高まりとともに,
労働者の権利が認められ,女性の社会進出も進んだ。

ドイツでは1919年,
当時最も民主的といわれたワイマール憲法が制定され,
20歳以上の男女の普通選挙や
労働者の団結権が定められた。

アメリカでは1920年に男女の普通選挙が実現し,
イギリスでも1924年に労働党が初めて政権をにぎり,
1928年には男女の普通選挙が決められた。



ベルサイユ条約でドイツに課せられた賠償金は
1320億マルク(当時のドイツのGNPの20年分)という
莫大なものであった。

多額の賠償責任を負わされたドイツでは,
戦後天文学的なインフレがおこった。
インフレによって紙幣が紙くず同然になってしまった。

その後もドイツはこの過酷な賠償条件に苦しみ,
それが後に,
ドイツ民族の優位性を訴えるヒトラーのナチス政権を生み出す
原因の1つとなった。

これに対し,アメリカは第一次世界大戦で戦場になることがなく,
疲弊したヨーロッパ諸国にかわって世界各国に製品を輸出したので,
世界経済の中心になった。

 アジアの民族運動



日本の植民地支配のもとに置かれていた朝鮮では,
1919年3月1日,ソウルで独立をめざす知識人や学生らが
日本からの独立を宣言する文章を発表し,
人々は「独立万歳」をさけんでデモ行進を行った。

これに刺激された独立運動は,朝鮮全土に広がった。
これを三・一独立運動という。
日本は軍隊を動員してこれを鎮圧した。

1919年,ベルサイユ条約でドイツの中国における権益を
日本が引き継ぐことが認められたため,
中国の反日感情が爆発した。

1919年5月4日の北京での学生集会をきっかけに,
中国国内で反日運動がおこり,
さらに帝国主義の侵略に反対する国民運動へと発展した。
これを五・四運動という。

この運動をきっかけに,孫文は中国国民党を結成し,
1921年に結成された中国共産党とともに,
民族の独立と国家の統一をめざす運動をくり広げた。

インドでは,戦争に協力すれば自治を認めるという約束を
イギリスが守らなかったため,
暴力・不服従を唱えるガンディーを指導者として,
独立運動がおこった。

 [要点-大正デモクラシー]
 
(1)
第一次世界大戦中の好景気によって物価が上昇したが,特に米価はシベリア出兵を見込んだ商人の買い占めにより異常な値上がりを見せた。
1918年,富山県の漁村でおこった米騒動はたちまち全国に広がった。
その結果,桂太郎内閣は倒れて,政友会の原敬による最初の本格的政党内閣が生まれた。

(2)
普通選挙と政党内閣の実現を求める声が高まり,吉野作造は民本主義を唱えた。
こうした民主化を求める動きを大正デモクラシーという。
憲政会の加藤高明を中心とする内閣ができ,1925年普通選挙法が成立し,選挙権は満25歳以上の男子になった。
しかし,同時に,社会主義運動をおさえるための治安維持法がつくられた。

(3)
大正時代,労働運動がさかんになり,農村でも,小作料の減免を要求する小作争議が起こった。
平塚らいてう青鞜社を組織した。
1922年には部落差別の解消をめざして全国水平社が結成された。

 大正デモクラシー



1912年,藩閥勢力の桂内閣が議会を無視した政治を行ったので,
新聞人や知識人が憲政擁護運動を起こした。

それを支持する運動(第一次護憲運動)が各地に広がり,
翌年,桂内閣を退陣させた(大正政変)。

第一次護憲運動に始まり,政党政治の発展をみた大正時代は,
民主主義がとなえられ,自由主義の風潮が高まった時期であった。
このような風潮を大正デモクラシーという。

吉野作造は民本主義をとなえ,美濃部達吉は天皇機関説をとなえた。

1918年,シベリア出兵を見こした商人の米の買い占めによって,
米は異常な値上がりを続けた。
富山県の漁村の主婦たちが,米の県外への積み出しを実力で止め,
安売りを求める事件が起きた。
新聞でこれが報道されると,全国各地で米の安売りを求めて民衆が集まり,
米屋・金貸し・大商店におしかけるなどはげしい行動を起こした。
これを米騒動という。

米騒動の結果,藩閥内閣が倒れて,
原敬を首相とする最初の本格的政党内閣ができた。
しかし,原敬内閣は,社会運動には理解を示さず,
普通選挙も時期尚早として,選挙権の納税条件を引き下げただけであった。

原敬内閣の後,ふたたび非政党内閣が続いたが,
1924年,政党勢力は,
普通選挙の実施などを主張して第二次護憲運動を起こし,
1925年には憲政会の加藤高明内閣が成立した。
1925年,加藤高明内閣は,普通選挙法を成立させた。

普通選挙法は,
それまでの納税額による選挙権の制限を撤廃したところに特徴があり,
25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。

一方,これによって共産主義者が勢力を伸ばすことを恐れた政府は,
同時に,治安維持法を制定して,
天皇を中心とする国の組織や
私有財産制度の廃止をめざす共産主義の取り締まりを強化した。

 社会運動の高まり



大正時代にはさまざまな民衆運動が高まった。
労働運動では,
日本労働総同盟が労働者の団結と解放を目指して労働争議を指導し,
1920年5月1日には労働者の祭典であるメーデーが行われた。

農村でも,
小作料の減免を要求する小作争議がひんぱんにおこった。

差別からの解放を求めてきた被差別部落の人々は,
1922年に全国水平社を結成し,水平社宣言を発表した。

女性差別からの解放をめざす運動もさかんになり,
平塚らいてうを中心にして青鞜社が結成された。

 大正時代の文化



大正時代の文学については,
まず,白樺派をあげなければならない。

志賀直哉は人道主義の理想をかかげ,
武者小路実篤らとともに雑誌「白樺」を創刊した。

また,新思潮派の芥川龍之介(小説「羅生門」で有名)は,
知性的な作品で人々に新鮮な印象をあたえた。

さらに,社会・労働運動の高揚にともない,
小林多喜二(「蟹工船」)などのプロレタリア文学もおこった。

 大正時代の生活



大正時代,工業化の推進などによって
日本の資本主義は飛躍的に発展し,
それにともなって都市化と大衆化が進んだ。

ガス,電気,水道などの普及によって,
都市では,西洋風の生活様式が流行した。

住宅の一部に西洋間を設けガラス窓を採用した「文化住宅」が流行し,
カレーライス,トンカツ,コロッケなどの洋風料理が広まった。

洋服は,まず男性に普及したが,
バスガールや電話交換手など,働く女性が増加し,
女性にも広がり始めた。

1925年に始まったラジオ放送は,またたく間に全国に普及した。
また,それまでの活動写真(無声映画)にかわってトーキーが登場し,
レコードも普及した。

 先頭に戻る


 昭和
 [要点-世界恐慌・満州事変]
 
(1)
1929年世界恐慌がおこった。
イギリスやフランスはブロック経済を行った。
アメリカでは,ルーズベルト大統領ニューディール政策を実施した。
イタリアでは,1922年にムッソリーニファシスト党を率いて独裁政治を行い,ドイツではヒトラーナチス党が政権をにぎった。
ソ連はスターリンが五か年計画など計画経済を進めていたため世界恐慌の影響を受けなかった。

(2)
1931年,軍部は南満州鉄道を爆破して満州事変をおこし,満州を占領し満州国を成立させた。
国際連盟は日本の引き揚げを勧告した。
これを不服とした日本は,1933年国際連盟を脱退した。
1932年五・一五事件がおき,満州国の承認をしぶる犬養毅首相が暗殺された。
これによって8年続いた政党政治は終わりをつげた。
さらに,1936年二・二六事件がおこり,有力な政治家,軍人が暗殺された。

 世界恐慌



1929年,ニューヨーク株式市場の株価が大暴落し,
銀行や工場が倒産して失業者があふれ,また農産物価格も急落した。

この経済の混乱は世界中に広がり,世界恐慌をもたらした。

アメリカでは1933年にルーズベルトが大統領になり,
ニューディール政策を実施した。
これは,公共事業をおこし,生産を調整し,
失業者を助け,労働組合を保護する政策であった。

イギリスやフランスは,植民地との貿易を拡大する一方,
他の国の商品には高い関税をかけて,
これをしめだすブロック経済を実施した。

当時ソ連ではスターリンを指導者として,
五か年計画等の計画経済を進めていたため,
世界恐慌の影響は受けなかった。
スターリンは,反対する人々を大量に死刑や流刑にする
独裁政治を行った。

 ファシズム



イタリアでは,すでに1922年にムッソリーニが
ファシスト党を率いて独裁を行っていた。

ドイツは第一次世界大戦の賠償金の支払いに苦しみ,
物価高がおこっていたが,
世界恐慌は,経済をさらに悪化させ,失業者が増大した。
ヒトラーの率いるナチス党は,国民生活の安定を約束し,
ドイツ民族の優秀さを大衆の感情に訴えることで国民の支持を集め,
1933年に政権を握った。

ヒトラーは他の政党を解散させて独裁を完成し,
国際連盟を脱退して軍備を強化し,
さらにユダヤ民族を迫害した。

ドイツやイタリアにあらわれた,
このような政治をファシズムという。

 満州事変と五・一五事件





①大正時代は大正デモクラシーで 政党政治が本格化した時代である。
 対外的にも対英米協調路線をとった時代であった。

 軍備を縮小し国民の負担を減らすため,
 政府は1930年,ロンドン海軍軍縮会議に参加し,
 イギリス,アメリカと協調して,条約に調印した。

 しかし,一部の軍人や国家主義者はこれを激しく攻撃し,
 首相の浜口雄幸は,右翼の一青年に狙撃されて重傷を負い,
 退陣に追い込まれた。

 また,国民の中には,財閥と結びついて
 汚職や政争をくりかえす政党への不満が高まっていった。

②1927年,中国では蒋介石 の率いる中国国民党が
 南京に国民政府を樹立し,中国の統一を進めていき,
 満州における日本の権益を中国に回収することを表明した。
 
 危機感をいだいた満州駐留の関東軍は,
 1931年,奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道(満鉄)を爆破し,
 これを中国軍のしわざであるとして満州事変を起こし,
 満州全土を占領した。

 この計画は陸軍,それも出先機関の関東軍が勝手に始めたものであり,
 当時の若槻礼次郎内閣(政党内閣)にとっては,まさに寝耳に水であった。
 政府は不拡大方針をとろうとしたが,
 関東軍はこれを無視して占領地を拡大した。

 明治時代の藩閥政府のような強力な力を持たず,
 汚職や政争をくり返して国民の信頼を得ることができなかった政党内閣は,
 軍をコントロールする力に欠けていた。

 世論やマスコミはむしろ軍の行動を支持し,
 自信を失った若槻内閣は総辞職した。

 軍は,1932年に,清朝最後の皇帝溥儀を元首とする
 満州国をつくった。
 若槻内閣にかわった犬養毅内閣は,
 満州国の承認に反対する方針をとったが,
 これに対し,海軍将校の一団が犬養毅首相を殺害した。

 この五・一五事件によって
 8年間続いた政党内閣の時代が終わった。
 満州事変はアメリカを中心に各国の反発を招き,
 中国からの訴えで国際連盟はリットン調査団を送り,
 日本軍の占領地からの撤退を勧告した。

 1933年,この勧告が総会で42対1で可決されると,
 日本は国際連盟を脱退し,
 国際的に孤立することになった。

 二・二六事件



1936年,陸軍の一部の青年将校が首相官邸や
警視庁などを襲撃する二・二六事件をおこした。
これ以降,軍部は政治的発言権を強めていった。

 [要点-日中戦争・第二次世界大戦]
 
(1)
1937年,北京郊外の盧溝橋で日中両軍の軍事衝突がおこり,日中戦争が始まった。
中国では, 蒋介石の国民政府と毛沢東の共産党抗日民族統一戦線を作った。
戦争の長期化にともない,国民を徴用したり,物資を調達したりすることができるようにした国家総動員法が制定され,政党は解散させられ大政翼賛会が作られた。

(2)
ドイツ1939年にポーランドに侵入し,イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し,こうして第二次世界大戦が始まった。
1940年,日本は日独伊三国同盟をむすび,1941年にソ連との間に日ソ中立条約をむすんだ。
これに対して,アメリカは日本への石油輸出の全面停止を行い,追い込まれた日本は,1941年,ハワイの真珠湾を奇襲し,アメリカとイギリスを相手として太平洋戦争を始めた。

(3)
1942年6月のミッドウェー海戦での敗北をさかいに,戦局は悪化し,兵士の不足に対処するため学徒出陣も行った。
1945年4月,アメリカ軍は沖縄県に上陸した。
1945年8月6日広島に,8月9日長崎原爆が投下された。
この間の8月8日,ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本への攻撃を開始した。
8月15日,日本はポツダム宣言を受諾して,連合軍に降伏した。

 日中戦争

 

1937年,北京郊外の盧溝橋で日本軍が中国軍と衝突し,
日中戦争が始まった。

戦火は華北から華中に拡大し日本軍は中国の首都南京を占領した。
その中で,多数の中国人を殺害する南京事件を起こした。

中国国内では,国民党の蒋介石と,中国共産党の毛沢東とが対立し,
内戦が続いていたが,共同して日本軍と戦うために手を結んで,
抗日民族統一戦線を結成した。

 戦時体制
 


日中戦争の長期化にともない,1938年に国家総動員法をつくり,
資源や労働力のすべてを戦争のために動員できるようにした。

米などが配給制となり,
国民を戦争に協力させるために隣組を組織した。

さらに1940年,挙国一致の強力な新体制を樹立するため
大政翼賛会が結成された。
これにより,議会で活動していた政党が解散し,
議会は無力となった。

 第二次世界大戦



ドイツは第一次世界大戦の賠償金の支払いに苦しみ,
物価高がおこっていたが,世界恐慌は,
経済をさらに悪化させ,失業者が増大した。

ヒトラーの率いるナチス党は,国民生活の安定を約束し,
ドイツ民族の優秀さを大衆の感情に訴えることで国民の支持を集め,
1933年に政権を握った。

ナチス党のヒトラーに率いられたドイツは
1938年にオーストリアを併合した。
1939年8月にドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上で,
9月にポーランドを侵略した。

これに対してイギリスとフランスはドイツに宣戦し,
こうして第二次世界大戦が始まった。

1940年にはフランスを降伏させ,イギリスへの空襲を行った。
さらに,1941年6月には,
ドイツは不可侵条約を破ってソ連に侵攻した。

大戦中,ドイツはユダヤ民族の絶滅をめざして強制収容所に連行し,
約600万人のユダヤ人を虐殺した。

 三国同盟~開戦



日本は,日中戦争のゆきづまりを打開するため,
東南アジアを侵略して資源を手に入れ,
連合国から中国への支援ルートを断とうとした。

そして,アジアから欧米の勢力を追い出し,
アジアの諸民族だけで栄えるとする「大東亜共栄圏」を唱えた。

1940年9月,日本は,ドイツに降伏したフランスの領土である
インドシナ北部に軍を進め,
ドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結んだ。

さらに,翌年には,
ソ連と日ソ中立条約を結んで北方の安全をはかりながら,
インドシナ南部にまで勢力を伸ばした。

この行動に,アメリカは他国と協力して,
日本へABCD包囲陣(America,British,China,Dutch)という
経済封鎖をおこない,経済的圧迫を強めた。

この圧力に対し,日本国内では開戦の考えが有力になり,
陸軍軍人の東条英機が内閣総理大臣になった。

1941年12月8日,日本軍はイギリス領のマレー半島に上陸し,
ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲攻撃して,
アメリカ・イギリスを相手として太平洋戦争を始めた。

 戦中~敗戦





1941年,日本はハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲攻撃して,
アメリカ・イギリスを相手として太平洋戦争を始めた。

しかし,1942年のミッドウェー海戦での敗北を機に
日本軍の形勢が不利になっていった。

戦争が進むにつれ,国内では生活物資が不足するようになり,
配給量も減少し,金属器などの供出も行われた。

1944年にサイパン島が陥落すると,
アメリカ軍の日本本土への無差別爆撃が始まった。
空襲が激しくなると,
大都市の小学生は父母の元を離れて,農村に集団疎開した。

1945年3月に,アメリカ軍は沖縄に上陸し激しい地上戦が行われた。
さらに,1945年8月6日に広島に,
8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。

その間,ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦し,
満州・朝鮮に侵入した。

こうした中で,1945年8月15日,
日本はポツダム宣言を受け入れて
無条件降伏を行った。

 先頭に戻る


 戦後
 [要点-戦後~現代]
 
 年代  おもなできごと
 1946(昭和20)  婦人参政権(20歳以上の男女),財閥解体
 1946(昭和21)  日本国憲法公布
農地改革(自作農の育成)
 1949(昭和24)  中華人民共和国成立:主席は毛沢東
 1950(昭和25)  朝鮮戦争
 1951(昭和26)  サンフランシスコ平和条約を結び独立を回復,日米安全保障条約
 1956(昭和31)  日ソ国交回復→国連への加盟
 1965(昭和40)  韓国と日韓基本条約を結ぶ。
 1972(昭和47)  沖縄の返還,中国と国交回復
 1973(昭和48)  石油危機
 1978(昭和53)  中国と日中平和友好条約を結ぶ
 1980年代後半  バブル経済→崩壊
 1989(平成1)  ベルリンの壁の崩壊→翌年,東西ドイツが統一。
 1991(平成3)  ソ連が解体
 2001(平成13)  アメリカで同時多発テロが発生

(1)
選挙制度が改正されて20歳以上の男女選挙権が与えられた。
日本国憲法は,1946年11月3日公布され,1947年5月3日施行された。
経済を民主化するために財閥解体が実施され,封建的な地主・小作制度を改めるために農地改革が行われた。
さらに,労働者の権利を守るために,労働基準法労働組合法が制定され,民主的な教育を行うために,教育基本法が制定された。

(2)
1945年国際連合が成立した。
戦後,アメリカを中心とした資本主義陣営とソ連を中心とした社会主義陣営の間の対立が激しくなった。
この二大陣営の間の戦火を交えない争いは「冷たい戦争」と呼ばれた。
中国では1949年に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。

(3)
1950年朝鮮戦争がおこり,アメリカは日本に警察予備隊をつくらせた。
日本は,1951年に48か国との間に,サンフランシスコ平和条約を結んで独立を回復した。
同時にアメリカとの間に日米安全保障条約を締結した。
1956年には,ソ連との国交を回復し,日ソ共同宣言を発表した。
これによって,日本は国際連合への加盟が認められた。

(4)
1950年代半ばに結成された自民党は,その後38年間にわたって政権をとり続けた。
これを55年体制と呼ぶ。

 GHQの占領政策



1945年8月15日,
日本の降伏と戦後の民主化を求めるポツダム宣言を受け入れて
無条件降伏を行った。

日本は,アメリカを主力とする連合国軍に占領されることになった。
占領下におかれた日本の政治は,
アメリカのマッカーサーを最高司令官とする
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令のもとに
間接統治の形で進められた。

GHQは日本の民主化を目指して五大改革指令を出した。
軍隊は解散され,
戦争の責任があるとされた軍人や政治家が
極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられ,
戦争中に重要な地位にあった人は公職から追放された。
また,天皇が神の子孫であることを否定する人間宣言を行った。

 日本国憲法の制定



日本政府はGHQの示した案をもとに,
憲法改正案をつくり,議会の審議を経て
1946年11月3日に公布し,
その半年後の1947年5月3日から施行した。

日本国憲法の三大原則は,
国民主権,基本的人権の尊重,平和主義である。

 婦人参政権



戦前に普通選挙が実現されていたが,
選挙権は25歳以上の男子のみに与えられ,
女子には選挙権は認められていなかった。

戦後,婦人参政権が認められ,
選挙権は20歳以上の男女になった。

 財閥解体と農地改革



農村では,農地改革が行われ,
村に住んでいない地主の全耕地と在村地主の1ha以上の耕地は,
国が買い上げて,小作人に安く売り渡した。
その結果,自作農家が増えて小作農家が減少した。

GHQは財閥を軍国主義政策への協力勢力として,財閥解体を命じ,
これまで日本経済を支配してきた大資本家の支配をやめさせ,
それぞれの会社を独立させた。

また,労働者の権利を守るため,
団結権・団体交渉権・争議権を保障した労働組合法,
最低限の労働条件を定めた労働基準法,
そして労働関係調整法が制定された。

 国際連合



1945年4月,サンフランシスコで国際連合憲章の調印が行われ,
10月に,平和を維持する機関として,
ニューヨークに本部を置く国際連合がつくられた。

国際紛争の解決をはかるために安全保障理事会が設置され,
アメリカ,イギリス,フランス,ソ連,中国が常任理事国となった。

非常任理事国は10か国で,選挙で選ばれ任期は2年である。
理事会の決定には,15理事国のうちの9か国以上の賛成が必要である。
ただし,常任理事国の中で反対が1票でもあれば否決されるという
五大国一致の原則がとられている。

このような常任理事国の権利を拒否権という。

 冷たい戦争
 


戦後アメリカを中心にする西側諸国(資本主義諸国)と,
ソ連を中心にする東側諸国(社会主義諸国)の対立が激しくなった。

ドイツは西半分をアメリカなどが,
東半分をソ連が占領したが,戦後の米ソの対立のために,
そのまま分割されて資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツになった。

アメリカを中心とする西側諸国は,
1949年に北大西洋条約機構(NATO)という軍事同盟を結んだ。

これに対し,ソ連を中心とする東側諸国は,
1955年にワルシャワ条約機構を結んだ。

このような東西の対立は深刻なものであったが,
核戦争の恐怖から米ソの直接の軍事衝突にまでは至らなかった。
戦火は交えない深刻な対立であったため,
冷たい戦争(冷戦)と呼ばれた。

 東アジアの情勢(中国)



第二次大戦後の中国では共産党と国民党の内戦が始まり,
これに勝利をおさめた共産党が,
1949年,毛沢東を主席とする中華人民共和国をつくった。
敗れた国民党の蒋介石は台湾にのがれた。

 東アジアの情勢(朝鮮半島)



朝鮮は,日本の敗北により植民地から解放されたが,
北緯38度の線を境に,北をソ連に,南をアメリカに占領され,
やがて1948年には,北に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国),
南に韓国(大韓民国)がつくられた。



1950年,北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が始まった。
韓国軍は半島の南端まで追いつめられたが,
アメリカ軍を主力とする国連軍が韓国を助けるため参戦した。

国連軍が北朝鮮を追って,中国との国境に近づくと,
今度は中国が北朝鮮側に立って参戦し,
戦局は38度線付近で一進一退をくり返した。

朝鮮戦争が起こると,アメリカは大量の軍需物資を日本に発注した。
そのため,日本経済は不景気から回復し,復興を早めることができた。

 独立の回復と55年体制



朝鮮戦争が始まると,アメリカは日本に警察予備隊をつくらせた。
これが現在の自衛隊の前身である。

アメリカは日本を西側陣営の強力な一員にするため,
サンフランシスコで講和会議を開き,日本の独立を急がせた。

1951年,サンフランシスコ平和条約が締結され,
日本はようやく独立を回復した。

しかし,ソ連などの社会主義国は条約に反対して調印せず,
戦争の最大の被害国である中国は会議に招かれなかった。

また,日本が多額の賠償金支出にたえられないことから,
大半の国が賠償を求めなかった。

また,日本が侵略したアジアの国々との間でも,
経済協力を賠償にかえることが多く行われた。

これと同時に,日本に対する武力攻撃を防ぎ,
東アジアの平和を維持するために,
アメリカと日米安全保障条約が結ばれた。
吉田茂が首相のときであった。

 水爆実験
 
アメリカは第二次世界大戦末期に原爆を開発していたが,
1949年にはソ連も原爆の開発に成功した。

1954年にはアメリカがビキニ環礁で水爆実験を強行し,
現地付近の島民や日本の第五福竜丸という漁船などが被害を受けた。

このころソ連も水爆の開発に成功しており,
アメリカとソ連は核兵器の開発競争を行っていった。

アメリカのビキニ環礁での水爆実験以降,
核兵器開発に対する反対運動が高まり,
翌1955年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催された。

 政党の結成

独立回復後,1955年,日本では政党に新しい動きが起こり,
保守勢力が自由民主党(自民党),
革新勢力が日本社会党(社会党)を結成した。

それから長く続く,自民党を与党とし,
社会党を主要野党とする55年体制が始まった。

自民党と社会党の対立の頂点は,
1960年の日米安全保障条約(安保条約)の改定であった。
自民党の岸介内閣は,
アメリカとの関係を強化することをめざして,
新しい安保条約を結んだ。

これに対し,安保闘争という激しい反対運動が起こり,
岸内閣は,条約成立後に退陣した。

 緊張緩和と日本外交



冷戦下の国際的な緊張は,
1950年代半ばからしだいに緩和していった。

1955年,アジア・アフリカの29か国が,
インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議を開き,
植民地支配反対と,平和共存をうったえた。

1962年,ソ連がキューバに
核ミサイル基地を建設していることを察知したアメリカは,
キューバの海上封鎖を行った。

このキューバ危機は,米ソ間の核戦争が起こる寸前で回避された。
この事件をきっかけとして,
アメリカとソ連は首脳間の直通電話(ホットライン)を設置し,
急速に関係を改善していき,緊張緩和が本格化した。

西ヨーロッパ諸国は,
1967年にヨーロッパ共同体(EC)を設立する一方,
1970年代前半に東ヨーロッパ諸国との関係を改善した。

1965年,アメリカは南ベトナムを支援して
北ベトナムへの激しい爆撃と
地上軍の派遣を行いベトナム戦争が激化した。

世界各地で反戦運動が高まる中,
アメリカは,ソ連と対立していた中国との関係を改善し,
1973年にベトナムから撤退すると,
緊張緩和はアジアにも広がった。



東南アジア諸国との賠償問題は,
1950年代末までにおおむね解決された。

また,韓国とは,1965年に日韓基本条約を結び,
韓国政府を朝鮮半島の唯一の政府として承認した。

中国とは,1972年に田中角栄内閣が
日中共同声明によって国交を正常化した。

このとき,中国から日本へパンダが贈られた。
さらに,1978年には日中平和友好条約が結ばれた。

サンフランシスコ平和条約で,
沖縄はアメリカの統治下に置かれていたが,
佐藤栄作内閣はアメリカ政府と交渉を進め,
1972年5月に,沖縄の日本への復帰が実現した。

この過程で,非核三原則が国の方針になった。
石油危機後の1975年から,先進諸国の間で毎年1回,
サミットという首脳会議が開かれるようになった。

 [要点-高度経済成長~現在]
 
1950年代半ばから日本は高度経済成長という急速な経済の成長をなしとげた。
1960年の安保闘争の直後に成立した池田勇人内閣は所得倍増をスローガンにかかげた。
高度経済成長にともなって,水俣病(熊本県),四日市ぜんそく(三重県),イタイイタイ病(富山県),新潟水俣病(新潟県)などの公害問題が深刻化した。
公害問題に対処するため,国は,1967年に公害対策基本法を制定し,1971年には環境庁を設置した。

20年近く高度成長を続けた日本経済は,アラブ諸国による石油価格の引き上げと石油の輸出制限が原因で,1970年代に石油危機(オイル・ショック)にみまわれたが,これによって,高度経済成長は終わりを告げた。

1972年にアメリカから沖縄が返還された。
同年,日本は日中共同声明によって中国との国交を正常化し,1978年には日中平和友好条約を結んだ。

1980年代後半から90年代はじめにかけて,地価や株価が異常な値上がりをしたが,このころの経済をバブル経済という。
1991年,バブル経済が崩壊し,金融機関は回収不能な不良債権をかかえることになった。

1990年には東西ドイツが統一され,1991年にはソ連が解体してロシア連邦などが成立した。

 高度経済成長



1953年は,マスコミによって「電化元年」と名付けられたが,
これは家庭電化製品が普及し始めたからである。

特に,白黒テレビ,冷蔵庫,洗濯機は,「三種の神器」とよばれた。

1950年代後半から,
わが国の経済は高度経済成長とよばれる急速な成長をとげた。

1960年に池田勇人内閣は所得倍増をスローガンにかかげた。
1964年に東京オリンピックが開催されたが,
これにあわせて,東海道新幹線,首都高速道路が建設され,
これをきっかけにして高速道路網が整備された。

1968年,日本の国民総生産(GNP)は,
資本主義国の中でアメリカに次ぐ第2位になった。



高度経済成長は,さまざまな社会問題を生み出した。
都市には人口が流入して過密化の問題がおき,
農村では人口が減って過疎化の問題がおきた。

また,各地で深刻な公害問題が発生した。
なかでも,熊本県水俣湾の水俣病,
三重県四日市の四日市ぜんそく,
富山県神通川流域のイタイイタイ病,
新潟県阿賀野川流域の新潟水俣病
の4つは四大公害とよばれた。

これに対して,公害追放の住民運動が各地で展開されたため,
公害を防止し,環境汚染をくいとめるべく,
1967年に公害対策基本法が作られ,
1971年には環境庁が新設された。

また,1993年に環境基本法が作られた。

 経済大国日本
 


1973年,アラブ諸国とイスラエルの間で第四次中東戦争がおこった。
この戦争を機に,
アラブ諸国は,石油の輪出制限と石油価格の大幅な引き上げを行った。

石油をおもなエネルギー源としていた日本などの先進国は,
大きな打撃を受けた。
これを石油危機(オイル・ショック)という。

石油の輸入に大きく依存していた日本経済は,
石油の国際価格が大幅に上がったため,大きな打撃を受けた。
売りおしみや買い占めによって物価が上昇し,
トイレットペーパーなどの日用品の品不足が起こった。

1974年には戦後初めて経済の成長がマイナスとなり,
高度経済成長は終わった。

 経済成長率の変化





Aの時期:1955年から1973年までの間,
     日本経済は年平均で10%程度の高度経済成長を続けた。
     しかし,1973年に起こった石油危機によって高度経済成長は終わった。
Bの時期:石油危機後,日本は経営の合理化や省エネルギー化を進め,
     いちはやく不況を乗り切り安定成長の時期を迎えた。
     そして,鉄鋼や造船にかわって自動車や電気機器などの輸出がのび,
     貿易黒字が増えた。
     しかし,日本の輸出増加により,
     とくにアメリカとの間に貿易摩擦が生じた。
Cの時期:1980年代末,投機によって株式と土地の価格が
     異常に高くなるバブル景気(バブル経済)が発生した。
     しかし,このバブル景気は1991年に崩壊した。
Dの時期:長期にわたる平成不況のもとで,
     企業の倒産が増え,失業者が増大した。
     1990年代末に,小泉純一郎内閣が規制緩和,
     国営事業の民営化を進め,景気も回復した。
     しかし,貧富の格差や都市と地方の格差が拡大したといわれている。
     2008年の世界金融危機によって,ふたたび深刻な不況が発生した。

 冷戦後の国際社会



1980年代,ソ連は経済が停滞し,国力が低下した。
1985年に成立したゴルバチョフ政権は,
アメリカなどの西側諸国との関係を改善する一方で,
国内の経済と政治の立て直しをはかったが成功しなかった。

このような中,東ヨーロッパ諸国では民主化運動が高まり,
1989年に共産党政権が次々とたおれた。

ドイツでは1989年に,冷戦の象徴であったベルリンの壁が取りはらわれ,
翌1990年に東西ドイツが統一した。

1989年,ソ連のゴルバチョフ書記長とアメリカのブッシュ大統領は,
マルタ会談で冷戦の終結を宣言した。

東ヨーロッパの激変の影響を受けて,
1991年,ソ連を構成していたロシアなどの各共和国が独立し,
ソ連は解体した。

 多発テロ
 


冷戦終結後,東西の対立にかわって,世界各地で地域紛争が起きている。
また,テロリズムも発生している。

その1つの焦点は中東である。
イラクがクウェートに侵攻して,1991年には湾岸戦争が起こった。

2001年9月11日,一部のイスラム過激派が
アメリカ国内で大規模な同時多発テロをおこした。
これに対し,アメリカのブッシュ大統領は,
テロの首謀者をかくまっているとして,アフガニスタンを攻撃し,
さらに,2003年にはイラクを攻撃した(イラク戦争)。

地域紛争を解決するうえで,
国連の平和維持活動(PKO)の役割も大きくなっている。

 先頭に戻る