社会2年 日本の歴史(縄文・弥生)

 縄文弥生
 [要点-縄文・弥生・古墳時代]
 
 年代  おもなできごと
 1万2千年前  縄文時代:狩猟・採集、たて穴住居、貝塚、縄文土器、土偶
 紀元前3世紀  弥生時代:稲作が伝わる、高床倉庫、弥生土器、金属器
 57年  倭の奴の国王、漢に使いを送り金印を授けられる
 1・2世紀  吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
 239年  邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送る
 3世紀後半  大和地方:前方後円墳という日本独自の古墳、大仙古墳は日本最大
大和政権:大王(後の天皇)
朝鮮半島:伽耶地方の国と結んで高句麗や新羅と戦った→渡来人

①縄文時代:
人々は集団でむらをつくり、植物を栽培し、狩猟を行い、たて穴住居で生活をしていた。
縄目の文様のついた縄文土器が使われ、魔よけや食物の豊かさをいのるために土偶が作られた。
貝殻を捨てたあとである貝塚から発見される物から、当時の様子を知ることができる。

②紀元前3世紀ごろ:
朝鮮半島南部から稲作が伝えられた。
このころから紀元3世紀までの時代を弥生時代という。
うすくて飾りが少なく実用的な弥生土器が作られ、穀物の貯蔵のための高床倉庫が使われた。
また、青銅器や鉄器などの金属器が使われた。

③紀元前後:
日本は倭と呼ばれ、100あまりの国に分かれていた。
1世紀の中ごろ(57年)、倭の奴の国王が後漢の皇帝に使いを送り、金印を授けられた。
弥生時代の1、2世紀の頃の遺跡としては、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡がある。
239 年、倭の邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏に使いを送ったことが、中国の歴史書の魏志倭人伝にしるされている。

④3世紀後半:
大和地方には強力な国が生まれ、カギ形をした前方後円墳などの古墳が作られるようになった。
古墳のまわりには、はにわがおかれ、5世紀頃には世界最大級の大仙古墳がつくられた。
この国を大和国家、その政府を大和政権といい、その王は大王と呼ばれた。

⑤朝鮮:
高句麗が北から勢力をのばし、南部では新羅と百済が小国の統一を進めた。
大和国家は百済や、小国が分立していた伽耶(任那)地方の国と結んで高句麗や新羅と戦った。
朝鮮半島から日本へ移り住んだ人々は渡来人と呼ばれ、漢字・仏教・儒教や各種技術を伝えた。
 日本の旧石器時代-大陸と陸続き

 

【日本列島の旧石器時代】
人類が日本列島へ移住してきた時期から始まり、
約1万6500年前に終わったとされています。
この時代は地質学的には氷河時代の終末から完新世初頭までの期間を指します。

①石器文化:
この時代は石器を使って生活していました。
特に打製石器(石を打ち欠いて作った道具)が主要でした。
打製石器には握槌や石刃、尖頭器などがあり、狩猟や採集の道具として使われました。

②動物相:
大型動物が日本列島にやってきました。
マンモスやヘラジカ、ナウマン象、野牛などが存在しました。
人類もこれらの動物を追いかけて日本に住み着いたと言われています。

③植生:
氷期から間氷期への気候変化に伴い、植生も変化しました。
針葉樹林や広葉樹林が広がりました。

④遺跡:
日本列島全体で1万箇所以上の旧石器時代の遺跡が発見されています。
岩宿遺跡(群馬県)や野尻湖遺跡(長野県)などが有名です。
 岩宿遺跡

【岩宿遺跡】群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡。

 

①かつては、日本には旧石器時代はないと考えられていましたが、
1946年に群馬県の岩宿遺跡で打製石器が発見され、
日本にも旧石器時代があったことが明らかになりました。
 縄文土器

【縄文時代】約1万3000年前から紀元前4世紀ごろまで、縄文土器を使っていた時代。
【縄文土器】縄文時代に使われていた土器。

 

【縄文時代】
日本の先史時代に位置する時期で、約1万6000年前から始まりました。
この時代は、旧石器時代の次に続く新石器時代とされています。

①縄文時代の位置づけと始まり:
縄文時代は、日本列島が形成された約1万5000年前から始まりました。
この時期は、世界最古級の土器である「縄文土器」が使われていることが分かっています。
縄文時代の名前は、アメリカ人のモースによって名付けられました。
大森貝塚で発見された縄目の模様がついた土器を「コードマーク」と呼び、
それが縄文土器の名前の由来となりました。

②気候の変化と生活:
縄文時代は、氷河時代が終わり、地球が暖かくなった時期です。
氷が溶けて海面が上昇し、ユーラシア大陸と日本列島が分離しました(縄文海進)。
植物は針葉樹林から落葉広葉樹林や照葉樹林へと変化し、動物も小型化していきました。

③道具と文化:
縄文時代の道具は、磨製石器(石を磨いて作られたもの)や骨角器(骨や角を使った道具)が使われました。
弓矢の先っぽにも磨製石器が使われました。
丸木舟は、魚を捕るために使われ、交易にも利用されました。
黒曜石や翡翠などが広く分布していることから、海を超えて密に交流していたことがわかっています。

④縄文時代は、日本民族の文化の基礎が作られた重要な時期であり、
その晩期には稲作が始まったとされています。
 縄文時代の生活

【貝塚】縄文時代の人々が、貝がらなど食べものの残りかすを捨てたあと。
【大森貝塚】縄文時代の遺跡。
1877年、アメリカ人の動物学者モースによって発見され、日本で最初に発掘、調査が行われた貝塚。
【たて穴住居】縄文時代から奈良時代ごろまでの一般の人々の住居。

 

【縄文時代】
約1万4千年前から約2千年前まで続いた日本の先史時代です。
縄文人は、豊かな自然環境の中で暮らしていました。

①食事:
縄文時代の人々は、植物採集と動物の狩りを通じて食料を得ていました。
クリやクルミ、山菜、キノコなどを採取し、シカやイノシシを狩るために犬を飼っていました。
魚もモリなどの道具を使って捕らえていました。

②住居:
縄文時代の住居は、竪穴式と呼ばれるものでした。
地面を掘りくぼめ、その中に柱を立てて作られる円形や方形の住居で、
屋根は葦などの植物でできていました。

③服装:
縄文時代の服は、毛皮や麻で作られていました。
夏は麻の服、寒い時はシカの毛皮の服を着用していました。

④道具:
縄文土器は有名で、食生活に応じて作られました。
縄文土器は食料の調理や祭祀に使われました。
木や骨で作られた道具もありましたが、金属はまだ使用されていませんでした。

⑤言葉:
縄文時代の言葉は文字の証拠がないため、謎が多いです。
学説は様々で、中国や韓国の言葉を話していたという説から、
ギリシア語やヘブライ語を話していたという説もあります。

⑥平均寿命:
縄文時代の平均寿命は、男女ともに14.6歳でした。
乳幼児期の高い死亡率が影響しています。
縄文時代は、独自の文化や技術を持ち、豊かな自然と共に暮らしていた時代でした。
 三内丸山遺跡

【三内丸山遺跡】青森市で発見された、縄文時代の大規模な集落遺跡。

 

①縄文時代の代表的な遺跡は、青森県で発見された三内丸山遺跡です。
これは約5,500年~4,000年前のころの遺跡で、最盛期の人口が500人と、当時としては最大級の規模でした。
 土偶
 
【土偶】縄文時代につくられた土製の人形。

 

①土偶は粘土を焼いて作った土人形で、女性をかたどったものが多い。
魔よけや豊かな食物をいのるために使われたと考えられています。

②また、死者の霊の災いを防ぐためと思われる屈葬や、
大人になったことを示す儀式としての抜歯が行われていました。
 稲作の伝来
 
【高床倉庫】収穫した稲を保管するための倉庫。

 

①紀元前4世紀、中国や朝鮮半島から稲作が九州北部に伝えられ、
やがて東日本にまで広がりました。

②人々は水田の近くに「むら」をつくって住み、たて穴住居の近くには、
収穫した米をたくわえるための高床倉庫もつくられました。

③高床倉庫は、ねずみや湿気を防ぐために床を高くしています。
石包丁は稲の穂をつみとるのに使われました。
 金属器や弥生土器

【弥生土器】弥生時代に使われていた土器。
【青銅器】おもに弥生時代につくられた、銅とすずを混ぜた青銅でできた道具。
【鉄器】鉄でつくられた武器・工具や農具。

 

①稲作とともに、青銅器や鉄器などの金属器も伝えられました。

②銅剣・銅矛・銅鐸などの青銅器は、おもに祭りのための宝物として用いられ、
鉄器は武器として使われたほか、木製の農具や舟を作る道具として用いられました。

③このころに作られた弥生土器はかざりが少なく、薄手で赤褐色をしています。
 弥生時代の集落

【吉野ヶ里遺跡】佐賀県神埼市と神埼郡吉野ヶ里町にまたがる、弥生時代の大規模な集落跡。
【登呂遺跡】静岡市にある弥生時代の遺跡。

 

【弥生時代】
日本の歴史において稲作が始まってからの時代であり、
紀元前4世紀から紀元前3世紀頃まで続きました。

①集落の形成:
弥生時代の人々は、水田稲作を行うために集まりました。
縄文時代の集団を村(ムラ)と呼ぶと、
弥生時代の人々は国(クニ)といえる集団で暮らすようになりました。

②集落の特徴:
弥生時代の集落は、台地上や微高地に多くつくられました。
竪穴住居や高床倉庫が集まってムラを形づくっているのが一般的です。
水田を営むための湧水点のある平野に立地しました。

③社会の変化:
稲作によって収穫できた備蓄食料を求めて、人々が争いあうようになりました。
貧富の差が生まれ、土地と水を求めて争いが発生し、その結果、村が統合して国(小国)ができました。
弥生時代は、農耕社会が発展し、社会的な変化が進んだ時期であり、日本の歴史において重要な時代です。
 縄文時代と弥生時代の比較

弥生時代と縄文時代の違いをまとめると次の表のようになります。
 
 国々の誕生

【倭】古代、中国人が日本をさしたよび名。
【奴国】1~3世紀ごろ、現在の福岡市近辺にあった小国。
【金印】江戸時代に福岡県の博多湾の志賀島で発見された。
【魏志倭人伝】魏の歴史書である「魏志」の中で、日本について述べられた部分のことを指す。

  


①稲作がさかんになると、社会のしくみも急速に変わり、
小さな国々ができ人々を支配する豪族や王が出現しました。

②漢の歴史書の漢書地理志には、紀元前後のころ倭(日本)には100あまりの国があり、
なかには、中国へ使いを送る国もあったと記されています。

③また、57年には倭の奴国の王が後漢に使いを送り、後漢の皇帝から金印を授けられたことが
後漢書東夷伝に記されています 。

④この金印は江戸時代に現在の福岡県福岡市の志賀島で発見されたが、
このことから、奴国は九州北部にあったと考えられます。
金印にほられた「漢委奴国王」は「かんのわのなのこくおう」。
(金印では「倭」ではなく「委」の文字が使われている)
 邪馬台国

【魏・呉・蜀】3世紀、後漢の滅亡後に中国を支配していた3つの国。
【邪馬台国】3世紀に日本列島の30余りの小国を統一していたといわれる国。
【卑弥呼】邪馬台国の女王。

 

①3世紀になると、中国では後漢が滅び、魏・蜀・呉の3国に分かれていました。

②魏志倭人伝には、邪馬台国の女王卑弥呼が倭の30あまりの小国を従えており、
それらの国々では、すでに身分のちがいも生まれていたこと、239年に卑弥呼が魏に使いを送り、
皇帝から「
親魏倭王(しんぎわおう)」という称号と金印を授けられ、
銅鏡100枚などの多くのおくり物を受けたことが記されています。

③卑弥呼が使いを送ったのは、中国の皇帝に王として認めてもらうためでした。
 大和政権と古墳

【大和政権】3紀後半ごろにうまれた、現在の奈良盆地を中心にした豪族による連合政権。
【前方後円墳】3世紀後半~7世点ごろつくられた、古墳の形の一種。
【古墳時代】3世紀後半から7世紀にかけて、天皇や有力な豪族の墓である古墳がさかんにつくられていた時代。
【埴輪】古墳の頂上や周囲におかれた素焼きの土器。

 

①3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域には、王を中心として、
近畿地方の有力な豪族が支える強力な大和政権が生まれ、大きな墓(古墳)がつくられました。

②大和政権の支配の広がりにともなって、前方後円墳などの古墳は、
全国各地の豪族によってもつくられるようになりました。

③大和政権の王は、5世紀には九州から東北地方南部にいたる各地の王を従えるようになり、
大王と呼ばれました。

④古墳のなかで最大のものは、5世紀につくられた全長が486mの大仙古墳です。

⑤古墳のまわりや頂上には、人や動物をかたどった埴輪が置かれました。
 大和政権の勢力範囲

【大王】大和政権のリーダー。

 

①大型の前方後円墳が最も集中している地域は、大和政権が生まれた近畿地方ですが、
図のように九州から東北地方南部にも分布しているのが判ります。

②また、稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣や江田船山古墳(熊本県)出土の鉄刀には、
「ワカタケル大王」の名が刻まれています。

③これらのことから、5世紀には、大和政権の王は九州地方から東北地方南部に至る各地の豪族を従え、
大王と呼ばれていたことが判ります。
 大和政権と中国・朝鮮との交流-朝鮮半島の国々

【高句麗】紀元前1世紀に、朝鮮半島の北部に建てられた国。
【新羅】4世紀中ごろに、挑戦半島南東部に建てられた国。
【百済】4世紀中ごろに、朝鮮半島(現在のソウル付近)に建てられた国。
【伽耶(任那)】4世紀後半~6世紀中ごろ、朝鮮半島南部にあった地域。

 

①中国では4世紀ごろから国内が分裂し、やがて5世紀ごろから南と北とに分かれて、
国々の対立が続きました(南北朝時代)。

②これによって中国の朝鮮半島への支配力が弱まり、高句麗が楽浪郡を滅ぼして勢力を伸ばし、
ついで、新羅と百済がおこりました。

③高句麗:4世紀はじめに楽浪郡を滅ぼし、このころの朝鮮半島ではもっとも強力でした。
日本が伽耶(任那)の国々や百済と結んで、高句麗や新羅と戦ったことが、
高句麗の好太王碑に記されています。

④新羅:後に(7世紀の後半)、他国を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。

⑤百済:538年に日本に仏教を伝えました。

⑥伽耶(任那):大和政権は、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために
小国が分立していたこの地方と密接な関係を持っていました。
 伽耶

【伽耶(任那)】4世紀後半~6世紀中ごろ、朝鮮半島南部にあった地域。
6世紀中ごろ、新羅にほろぼされました。

①伽耶の成立と特徴:
紀元前1世紀頃に部族集団が形成され、農耕生活と支石墓を持った社会形態を築いていました。
伽耶は豊かな森林と洛東江に恵まれた土地で、
他の朝鮮半島の国々や中国と外交を行いながら独自の力を保持していました。
伽耶は、加羅(から)や金官国(駕洛国)などの小国が連合体を成していた地域でもあります。

②日本との関係:
日本では伽耶の一部を含む地域を「任那(みまな)」と呼び、
5~6世紀ごろに「任那日本府」という倭国の出先統治機関が存在していました。
任那日本府は伽耶諸国を支配し、近隣の百済や新羅などにも影響力を行使していました。
562年に任那が新羅に併合されるまで存在していました。
 倭の五王

【武】5世紀前半から6世紀初頭までの間の5人の倭の五王の1人。

 

①大和政権は、倭の王としての地位と朝鮮半島南部を軍事的に指揮する権利を
中国の皇帝から認めてもらうために、しばしば中国の南朝に使いを送りました。

②倭の五王が南朝の宋にたびたび使いを送ったことは、宋書倭国伝に記されています。
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