| 飛鳥 | ||||||||||||||||||||
| [要点-飛鳥] | ||||||||||||||||||||
①593年、聖徳太子は推古天皇の摂政となり、蘇我馬子と協力して政治改革を進めた。 まず、家柄にとらわれずに有能な人物を役人にとりたてる冠位十二階の制度をつくった。 また、十七条の憲法を定めて、役人の心得を示した。 ②さらに、中国の隋に小野妹子らを遣隋使として送った。 聖徳太子は仏教をさかんにするため、大和の斑鳩地方に法隆寺を建てた。 この時代の文化を飛鳥文化という。 |
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| 聖徳太子の政治改革-聖徳太子が摂政となる |
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【聖徳太子】574-622 推古天皇の摂政として政治を行った人物。 【摂政】天皇に代わり政治を行う役職。 【蘇我氏】飛鳥時代の有力な豪族。 ![]() ①6世紀になると、地方で豪族が反乱を起こし、 中央でも蘇我氏や物部氏が権力争いを繰り広げていました。 ②蘇我氏は外国の宗教である仏教をとり入れようとして、 これに反対する物部氏と争って滅ぼし政府内で大きな力をふるいました。 ③一方、中国では589年に隋が中国を統一して強大な帝国をつくりあげ、国際的緊張が高まりました。 こうした内外の情勢の中、593年に女性の推古天皇が即位し、甥の聖徳太子が摂政になりました。 ④摂政とは、天皇が女性であったり幼少であったりするときに置かれることがあり、 天皇の代理として政治を行う役職です。 聖徳太子は蘇我馬子と協力して政治制度を整えようとしました。 |
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| 冠位十二階 | ||||||||||||||||||||
【冠位十二階の制度】603年に聖徳太子が制定した制度。 ![]() ①聖徳太子は国家の仕組みを整えるため、603年に冠位十二階を、604年に十七条の憲法を定めました。 ②冠位十二階は役人の位を冠の色(紫色が最高位)で区別する制度で、 家柄に関係なく才能や功績のある人物を役人に取り立てようとするものでした。 |
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| 十七条の憲法 | ||||||||||||||||||||
【十七条の憲法】604年に聖徳太子が制定した法令。 ![]() 【聖徳太子が制定した「十七条の憲法」】 日本最初の成文法であり、日本書紀に記されています。 この憲法は、官人や豪族などに対して守るべき心得や行為の規範を示したもので、 近代的な憲法とは異なります。 一部紹介 以和爲貴(和の心をもって議論をしよう!): 争いごとを避け、和を重んじて議論を行いましょう。 篤敬三寶(仏法僧の3宝を篤く敬いなさい!): 仏法、僧、経典を敬い、信仰を持ちましょう。 承詔必謹(天皇からの詔書は謹んで承りましょう!): 天皇の詔書を敬虔に受け入れましょう。 以禮爲本(礼節はとても大切です!): 礼儀正しく振る舞いましょう。 明辨訴訟(訴訟は公明正大にやろう!): 訴訟を公正に行いましょう。 懲惡勸善(悪を懲らしめて善を勧めなさい!): 善行を奨励し、悪行を戒めましょう。 人各有任(正しい心で任務を全うしよう!): 仕事を誠実に行いましょう。 早朝晏退(仕事は準備が大切!): 仕事はきちんと準備して行いましょう。 信是義本(信頼関係は人の道の基本です!): 信頼を大切にしましょう。 不怒人違(価値観の違いを認め、他人の意見を尊重しよう!): 異なる意見を尊重しましょう。 これらの規定は、当時の社会において実践され、日本の伝統的な価値観を反映しています。 |
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| 遣隋使 | ||||||||||||||||||||
【遣隋使】聖徳太子によって隋に派遣された外交使節。 隋は581年から619年にかけて中国に存在した王朝で、当時の東アジアで強力な勢力を持っていました。 遣隋使は推古天皇の時代に計4回派遣され、主に以下の目的で行われました。 ![]() ①国際情勢の緊張:倭国(日本)と中国の外交は長らく途絶えていましたが、 推古天皇の時代に新羅への遠征を計画した際、隋を味方にするために遣隋使を派遣しました。 ②隋と朝鮮半島の状況:隋は朝鮮半島北部で高句麗と対立しており、 倭国と関係の深かった百済は新羅と対立していました。 遣隋使はこの緊迫した国際情勢の中で行われました。 遣隋使は、技術や制度を学ぶために派遣され、その後の遣唐使への影響もありました。 ③遣唐使: 隋の滅亡後も中国との交流を続け、日本の歴史に大きな影響を与えました。 |
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| 飛鳥文化 | ||||||||||||||||||||
【飛鳥文化】7世紀前半、飛鳥地方を中心に栄えた仏教文化。 【法隆寺】7世紀初めに、聖徳太子が大和の斑鳩に建てた寺。 【釈迦三尊像】法隆寺金堂に安置されている三つの像。 ![]() ![]() ①飛鳥文化の特徴: 仏教の伝来: 飛鳥文化は仏教が日本に伝来したことによって生まれました。 百済や高句麗を通じて中国大陸の南北朝やインドの文化の影響を受け、国際的な文化となりました。 ②寺院建立の興隆: 多くの大寺院が建立され、仏教文化が栄えました。 ③渡来人の役割: 朝鮮からの渡来人やその子孫が寺院や仏像の造営に関与しました。 ④代表的な寺院と仏像: 飛鳥寺(法興寺): 日本最古の本格的な寺院で、蘇我氏が関与しました。 飛鳥大仏(釈迦如来像)が有名です。 法隆寺(斑鳩寺): 聖徳太子と推古天皇によって創建され、日本最古の木造建築です。 金堂釈迦三尊像があります。 広隆寺(蜂岡寺、秦公寺): 秦氏の氏寺で、弥勒菩薩半跏思惟像があります。 |
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| [要点-大化改新] | ||||||||||||||||||||
①中大兄皇子と中臣鎌足は645年蘇我氏を倒して、唐を手本とし公地公民を大原則とする改革に乗り出した。 この一連の改革を大化の改新という。 ②このころ、新羅は朝鮮半島を統一すべく唐と連合して百済を滅ぼそうとした。 中大兄皇子は百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで破れたのち天智天皇となり、国内の改革に専念した。 ③天智天皇の死後、672年、後継ぎの地位をめぐって壬申の乱が起きた。 この争いに勝った大海人皇子は即位して天武天皇になった。 |
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| 大化の改新 | ||||||||||||||||||||
| 【大化の改新】645年に中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足らが、朝廷で権力をふるっていた蘇我氏を倒してはじめた政治改革。 【中大兄皇子】626-671 飛鳥時代の天皇。中大兄皇子とよばれていた時代に大化の改新をおし進めた。 【中臣鎌足】614-669 中大兄皇子らとともに大化の改新をおし進めた中心人物。 ![]() 【大化改新】 日本史上初の本格的な政治改革で、645年に中大兄皇子と中臣鎌足によって推進されました。 この改革は、蘇我入鹿の暗殺を通じて蘇我氏の独裁体制を廃止し、 天皇を中心とした政治を再構築しました。 ①公地公民制: それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、 さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)をすべて廃止し、公のものとしました。 ②首都の定め: 初めて首都を定め、畿内の四至を確定させました。 ③国郡制度の整備: 今まであった国、県、郡などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおしました。 ④戸籍と計帳の作成: 公地を公民に貸し与えるために戸籍と計帳を作成しました。 ⑤税制改革: 公民に税や労役を負担させる制度を改革しました(租・庸・調)。 ⑥薄葬令: 陵墓の規定を身分に合わせて整備し、合理化・簡素化を進めました。 伴造・品部の廃止と八省百官の制定: 世襲制の役職を廃止し、能力主義的な官僚制へ移行しました。 大臣・大連の廃止: 太政官が置かれ、左大臣・右大臣に置き換わりました。 ⑦冠位制度の改訂: 冠位十二階を改定し、中央集権的な序列をつけました。 ⑧礼法の策定: 職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定しました。 大化改新は、日本の政治体制に大きな変革をもたらし、律令国家の基盤を築いた重要な出来事でした。 |
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| 白村江の戦い | ||||||||||||||||||||
| 【白村江の戦い】 663年(天智2年8月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた戦争です。 この戦いは、日本と百済遺民の連合軍が、百済の復興を目指して唐と新羅の連合軍と戦ったものでした。 ![]() ①背景: 6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、 新羅は二国に圧迫されていました。 唐(中国)は高句麗に対する遠征を試みましたが、失敗し、 唐は新羅を冊封国として支援することになりました。 百済は飢饉や政治的混乱に見舞われ、退廃していました。 ②戦闘勢力: 日本軍:総勢27,000人(日本船舶800余) 唐軍:13,000人(唐船舶170余) 新羅軍:数千人 百済軍:数千人 ③結果: 唐・新羅連合軍が大勝し、百済の勢力圏は完全に消滅しました。 |
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| 壬申の乱 | ||||||||||||||||||||
| 【壬申の乱】天智天皇の死後、皇位をめぐって672年に天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子が争った内乱。 【天武天皇】631?~686天智天皇の弟。 【持統天皇】645-702 天智天皇の娘で、天武天皇の后。 【藤原京】694年、中国の都にならい、日本ではじめてつくられた都。 ![]() ①大化の改新以来、30年近くも政治にあたっていた天智天皇が死去した翌672年、 天智天皇の子である大友皇子に対して、天智天皇の弟である大海人皇子が挙兵して、 天皇の位をめぐる戦いが起こった。 これを壬申(じんしん)の乱といいます。 ②大海人皇子は各地の兵力を結集して勝利をおさめ、大友皇子は自害しました。 戦いに勝った大海人皇子は、即位して天武天皇になりました。 ③壬申の乱によって、大友皇子側についた有力中央豪族が没落したことで、 強大な権力を手にした天武天皇を中心に中央集権的国家体制の形成が進みました。 このころ天皇の権威が高まり、神としてあがめようとする天皇の神格化が始まったとされます。 ④天武天皇は再び飛鳥に都を移して、律令や歴史書の編さんを命ずるなど、 新しい政治のしくみを強力に作り上げました。 ⑤天武天皇の死後は、皇后であった持統天皇が事業を引き継ぎました。 持統天皇は、道路によってごばんの目のように区画された、 日本ではじめての本格的な都である藤原京をつくるなどして、 律令制度を実施する準備を整えました。 |
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