社会2年 日本の歴史(安土桃山時代)

 安土桃山
 [要点-安土桃山時代]
 
 西暦  おもなできごと
 1543年  ポルトガル人が鹿児島県の種子島に流れ着き鉄砲を伝える
 1549年  イエズス会のフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝える
 1560年  桶狭間の戦い(織田信長が奇襲によって今川義元を破る)
この頃、南蛮貿易がさかんになる
 1573年  織田信長が足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅亡させる
 1575年  長篠の戦い(信長、鉄砲隊を使って武田氏を破る)
信長は安土城を築き、城下では楽市・楽座を実施
 1582年  本能寺の変がおこり、信長は家臣の明智光秀に殺される
 1582年  豊臣秀吉は太閤検地を実施し収穫高は石高で表す
 1588年  刀狩令を出して兵農分離をすすめる
 1590年  豊臣秀吉が全国を統一する
~この頃から桃山文化が栄える~
 1592年  秀吉、朝鮮に出兵 → 李舜臣のひきいる水軍にやぶれ苦戦

①1543年、ポルトガル人をのせた船が台風にあって現在の鹿児島県の種子島に流れ着き、鉄砲が伝えられた。
これ以降、 ポルトガル人やスペイン人との南蛮貿易が盛んになった。

②1549年、イエズス会の指導者であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して日本にキリスト教を伝えた。

③織田信長は今川義元を桶狭間の戦いで破り、1573年には室町幕府を亡ぼした。
さらに、長篠の戦いで鉄砲を使った集団戦法で武田氏を破った。
琵琶湖のほとりに安土城を築き、城下に楽市・楽座令を出して誰でも自由に商工業ができるようにし、
さらに各地の関所を廃止した。

④信長のあとをついだ豊臣秀吉は大阪城を作り、1590年に全国を統一した。
秀吉は太閤検地を行い、収穫高は石高で示させた。
これによって荘園は完全に消滅した。

⑤また、刀狩令を出して兵農分離を進めた。
秀吉は最初キリスト教を保護したが、のちにこれを禁止した。
1592年、朝鮮に出兵したが、李舜臣の水軍に敗れた。
 鉄砲の伝来

【種子島】1543年にポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、鉄砲が日本に初めて伝えられた島。

 

①地理上の発見のあと、ポルトガルやスペインの船が日本の近くにも来るようになり、
1543年に種子島に流れ着いたポルトガル人が、日本に初めて鉄砲を伝えた。

②このとき伝えられた鉄砲は、まもなく堺や国友などで刀鍛冶職人によって作られるようになり、
戦国大名の間に広まりました。

③鉄砲をもっとも有効に活用したのは織田信長です。
長篠の戦いで足軽鉄砲隊を使った集団戦法で、当時最強といわれた武田の騎馬隊を打ち破ったのは有名です。
 キリスト教の伝来

【宣教師】キリスト教の教会がキリスト教を海外へ布教するために派遣した伝道師。
【イエズス会】1534年につくられたカトリックの修道会。
【フランシスコ・ザビエル】1506~52 スペイン出身のイエズス会宣教師。
【南蛮貿易】16世紀後半に、日本がポルトガルやスペインとの間で行った貿易。
【キリシタン大名】キリスト教の信者(キリシタン)となった大名。

 

①キリスト教が日本に伝来したのは、16世紀半ばの安土桃山時代です。
具体的には、1549年にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に来たことが、
キリスト教伝来の始まりとされています。

②当時、日本は戦国時代で、多くの戦国大名が互いに争っていました。
ザビエルは鹿児島に上陸し、その後、日本各地を訪れて宣教活動を行いました。
彼の目的は、日本にキリスト教を広めることと、
日本の人々をキリスト教徒(キリシタン)にすることでした。

③キリスト教は、はじめは地元の領主や民衆に興味を持たれ、ある程度の成功を収めました。
特に、鉄砲などの新しい技術や貿易の恩恵を受けるために、多くの大名がキリスト教を保護しました。
キリシタン大名と呼ばれる、キリスト教を受け入れた大名も現れました。

④しかし、豊臣秀吉の時代になると、キリスト教に対する政策が変わり、弾圧が始まります。
これには、キリスト教が日本の習慣や政治に大きな影響を及ぼす可能性があったことや、
外国勢力が介入する懸念があったことが背景にありました。

⑤江戸時代には、徳川幕府によってさらに厳しい弾圧が行われ、
キリスト教は日本において長い間地下に潜ることになりました。
 織田信長-桶狭間の戦い・長篠の戦いなど

【織田信長】1534~82 尾張(愛知県)出身の戦国人名。
【桶狭間の戦い】1560年、織田信長が尾張(愛知県)の桶狭間で駿河(静岡県)の今川義元を破った戦い。
【長篠の戦い】1575年、織田信長と徳川家康の連合軍が三河(愛知県)の長篠で、甲斐の戦国大名である武田勝頼の軍を破った戦い。
【安土城】織田信長が近江(滋賀県)の琵琶湖のほとりに築いた城。

 

①戦国大名の中で全国統一の願望をいだき、実行に移したのは織田信長でした。

②統一をなしとげるために数多くの合戦を戦ったが、桶狭間の戦いと長篠の戦いが有名です。

③尾張の小さな戦国大名であった織田信長は、2万5千という大軍で侵入してきた今川氏を、
そのわずか10分の1の兵力で奇襲して、今川義元を討ち取り今川軍を破りました。
これが桶狭間の戦いです。

④その後、足利義昭を援助して京都にのぼって将軍職につきましたが、
1573年には義昭を追放して室町幕府をほろぼしました。

⑤1575年、長篠の戦いで武田氏を破りました。
下図の左側の鉄砲を使用しているのが織田方です。
信長は川岸に柵を設けさせ、大量の鉄砲を使って一斉射撃をあびせかけて、
当時最強といわれた武田の騎馬軍団を壊滅させました。

⑥1582年、信長は、家臣の明智光秀にそむかれて、本能寺で自害しました。

 

⑦桶狭間の戦いによって今川氏の勢力がおとろえた後、
徳川家康は今川方から独立して織田信長と同盟を結び、
以後、織田信長が本能寺の変で倒れるまで忠実に信長に従ってともに戦いました。

⑧信長は堺の鉄砲と経済力に目をつけ、これを支配下に置こうとしたため、
堺の商人たちは自治を守るために戦いましたが、信長に屈服しました。

⑨信長は宗教勢力に対しても、敵対する勢力には厳しい態度で臨みました。
当時の大寺院・寺社は強大な宗教的権威と経済力を背景に武装しており、
それ自体が強大な政治勢力でした。
信長は敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。
信長にとって最大の敵となったのは、石山本願寺を頂点にした一向一揆勢力でした。

⑩信長は1573年には伊勢長島の一向一揆をほろぼし、翌年には越前の一向一揆を平定し、
ついに1580年には石山の本願寺を屈服させることに成功しました。

⑪なお、当時、キリスト教に対しては仏教勢力に対抗させる意図もあって、これを保護しました。
 安土城・楽市楽座

【楽市・楽座】市場の税を免除して、座による仕入れや販売の独占を廃止した施策。

 

①楽市楽座:
戦国時代から安土桃山時代にかけての日本で導入された経済政策の一つです。
主に織田信長によって実施され、その後、豊臣秀吉によっても引き継がれました。
この政策は市場の自由化と商業の発展を目的としていました。

②背景:
戦国時代、日本は多くの大名が領土を争っていた時期で、
各地で栄えていた座(特定の商人たちの組合)や市場は、各地の領主によって税がかけられていました。
このため、商業活動は制限され、発展が妨げられることがありました。

③楽市楽座の導入:
楽市:
市場を自由に開放し、誰でも自由に商売を行えるようにしました。
これにより、特定の商人だけでなく、さまざまな商人が参加することで、商業の活性化が図られました。

楽座:
座の特権や制限を廃止し、市場での商品取引を解放しました。
これにより、競争が促進され、さまざまな商品が取引されるようになりました。

④効果と影響:
楽市楽座の政策により、経済活動が活発化し、様々な地域で商業が大きく発展しました。
市場が自由化されたことで、より多くの人々が商業活動に参加でき、流通と経済の繁栄が進みました。
 豊臣秀吉-天下統一

【本能寺の変】1582年、織田信長が京都の本能寺で、家臣の明智光秀に襲われて自害した事件。
【豊臣秀吉】1537~98 尾張(愛知県)の足軽出身の武将。
織田信長の死後、その後継者となり、大阪城を本拠地として天下統一を果たし、関白となった。
【大阪城】豊臣秀吉が本拠地として築いた城。

 

①天下統一を目前にした織田信長は、1582年、家臣の明智光秀にそむかれて本能寺で自殺しました。

②豊臣秀吉は、いちはやく光秀を倒し、信長の後継者の地位につきました。

③秀吉は大阪に壮大な大阪城を築いて本拠地とし、朝廷から関白に任命されました。

④秀吉は天皇から日本全国の支配権をゆだねられたとして、惣無事(全国の平和)を呼びかけ、
互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の決定にまかせることを強制しました。

⑤この命令に従わなかった九州の島津氏などを降伏させ、
1590年には関東の北条氏を滅ぼして全国統一を完成しました。
 太閤検地と刀狩
 
【太閤検地】豊臣秀吉が行った政策。
【刀狩り】1588年、豊臣秀吉が行った政策。
【兵農分離】武士と農民の身分が区別されること。

  

①豊臣秀吉は、全国の田畑の面積、土地のよしあし、耕作者を調べさせ、村ごとに検地帳を作らせました。
これを太閤検地といいます。

②収穫高は、全国どこでも同じ大きさの京ますではかり、石高で表すようにしました。
検地帳に記された農民は、その田畑を耕作する権利を認められたかわりに、
定められた年貢を領主である武士に納めることになりました。
これによって年貢収納が確実になり、荘園領主などがもっていた田畑に関する権利はすべて否定され、
荘園は消滅しました。

③さらに、刀狩令を出して武士以外の者から刀・弓・やり・鉄砲などの武器を取り上げました。

④刀狩と検地によって、農民の一揆などの抵抗を防ぎ、
武士と農民を区別する兵農分離をおしすすめました。
 対外政策

【朝鮮侵略】豊臣秀吉が朝鮮に兵を出しておこした戦争。
【有田焼】肥前(佐賀県)の有田でつくられる陶磁器。

 

①全国統一を果たした秀吉は、中国の明の征服をめざして、朝鮮に大軍を送りました。
これを朝鮮侵略といいます。

②初めは優勢であったが、民衆の抵抗を受けて次第に苦戦し、
李舜臣の率いる水軍に大敗し、秀吉の病死により兵を引きあげました。

③朝鮮侵略のときに朝鮮から連れてこられた技術者によって
有田焼などの陶磁器が作られるようになりました。

④豊臣秀吉は、キリスト教が全国統一のさまたげになると考え、宣教師の追放令を出しました。
しかし、南蛮貿易は制限せず、外国の商船の来航は受け入れた。

 
 [要点-安土桃山文化]

①安土桃山時代、豪華・雄大で活気にあふれた桃山文化が生み出された。

②狩野永徳はふすま絵をえがき、千利休は茶の湯を大成し、出雲の阿国は歌舞伎を始めた。

③また、朝鮮侵略の際に連れてこられた技術者によって、すぐれた陶磁器が作られるようになった。
 桃山文化

【桃山文化】織田信長や豊臣秀吉の時代に栄えた文化。
【狩野永徳】1543~90 安土桃山時代の画家で、狩野派の1人。
【千利休】1522~91 安土桃山時代の茶人。
【出雲の阿国】安土・桃山時代にかぶきおどりを始めた女性。

 

①全国を統一する政権が出現した桃山時代は、古い社会のしくみが壊された。

②この時代の桃山文化は、大名や大商人たちの権力や富を背景にした豪華で壮大な文化で、
南蛮文化の影響も受けています。

 

③桃山文化を代表するのは、支配者の権威を示す壮大な城で、
城の最上部には天守閣が作られるようになりました。

④城のふすまや屏風には、はなやかな絵が描かれるようになりました。
屏風絵やふすま絵で有名なのは狩野永徳です。

⑤茶の湯は、大名や大商人たちの間で流行し、
秀吉に仕えた千利休は質素なわび茶の作法を完成させました。

⑥17世紀はじめに出雲の阿国が始めた踊りがかぶき踊りです。
「かぶく」は「傾く(かぶく)」という語から生まれた言葉で、
目をおどろかす異様な姿で変わったことをする者を「かぶき者」といいました。
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